自由にとって時間とは何か1 ——ベルクソンにおける可能性なき自由について 平井靖史(福岡大学) [email protected] 0. 自由と時間 ベルクソンは、自由をどのように理解していたのか。テクスト上誰の目にも明らかな点は、一方で、第一主著『意識 に直接与えられたものについての試論』(以下『試論』と略記)第三章において、彼は自由行為を、〈各人格の歴史の全 面的表現〉と見なせるような行為として語っていた2ということ、他方で、後期に至って自由の問題は、広く生命現象一 般に見いだされる〈予見不可能性〉の問題として取り上げ直され、宇宙の持続の進展が各瞬間に示す創出的〈新しさ〉 というテーゼへと発展的に結実していくということ、この二点であろう。だが両論点に一貫しているのは、「自由とは、 時間のもたらすある実在的効果である、すなわち、過去を現在のうちに取り込む働き(凝縮)によってもたらされる」、 という時間論的主張である。ベルクソンにとって、「生命を持つ」とは「過去を持つ(そしてこれを利用する)」という ことに同義であり、また、こうした過去の創出的効果の極みが、 〈表現としての自由〉において結実すると考えられてい るからである。 本論考では、ベルクソンにおいて可能性や必然性といった様相概念が、 (超時間的ではなく)時点依存的なものである 点を確認することで、どうして決定論(の否定)の観点からは自由の問題が適切な仕方で把握されないのかを示し、彼 の時間論(とりわけその過去〈凝縮〉理論)の主張から内在的に理解することを試みる。生命を含む宇宙は、必然的決 定にしたがうものではなく、予見不可能な新しさに絶えず開かれている、というベルクソンの主張は、正確に言ってど のような理論的背景をもって主張されているのか。これを解明すべく、以下、三段階の構成で論述を進めたい。まず、 特異と言われるベルクソンの自由行為論を、自由にまつわる現代の一般的な議論の布陣のなかに(無理に)位置づける 試みを通じて、彼の議論の固有性を浮かび上がらせる(1節)。次いで、様相概念の分析を通じて、ベルクソンによる可 能性概念の批判がどのような射程を持っているのかを見定める(2節)。これらの準備作業を踏まえた上で、ベルクソン が自由の本質的な特徴と見なしている〈予見不可能性〉〈新しさ〉の内在的解析に取りかかる(3節)。 1. 自由行為論:非決定論か両立主義か 自由を擁護する主張は、決定論に対する態度の取り方に応じて、大きく両立主義と非決定論の二陣営に分かれる3。 非決定論的アプローチは、出来事が因果連鎖によって必然的な仕方で決定されるならば、自由の余地はないと考え、 1 ベルクソンからの引用は、書名の略記に puf カドリージュ版のページ数を添えるという形をとった。DI: Essai sur les données immédiates de la conscience, MM: Matière et mémoire, EC: L’évolution créatrice, PM: La pensée et le mouvant. また、DI については、拙 訳から引用し、[]内に訳本の頁数を添えた。『意識に直接与えられたものについての試論』(合田正人・平井靖史共訳)、ちくま 学芸文庫、2002。 2 紙幅の都合で、基礎的な説明は割愛する。『試論』所収の拙論(「解説」)を合わせ読んでいただけると幸いである。 3 ここでは、決定論としてベルクソンが想定している因果的決定論を考察の対象とする。論理的決定論については、触れること ができなかったが、「真理の遡及的効果」の問題は『思想と動くもの』「緒論(第一部)」で扱われている。 また、自由を巡る現代における議論の整理については、以下の論文が大いに参考になった。記して感謝する。美濃正、「決定 論と自由—世界にゆとりはあるのか?」、『岩波講座 哲学 02 形而上学の現在』所収、2008。 1 複数の可能性を確保すべく、原因による必然的決定そのものを否定することを目指す。しかし、先行条件による決定を 否定したとして、それで果たして自由が得られるのか、なお疑問が残る。というのも、ファン・インワーゲンが鮮やか に示してみせたように4、出来事が、何の原因もなしに、あるいは単純にランダムな無差別性によって生じたからと言っ て、それをわれわれは自由な行為とは呼ばないだろうからである5。そこで、原因による決定を全面的に否定するのでは なく、何らかの仕方で「緩和」するような措置をとることで、この困難を回避しようとひとは考えるかもしれない。だ がこのような戦略で、実質的な困難が簡単に解消されるというわけにはいかない。なぜなら、仮に、先行する条件によ って選択肢が「ある程度絞り込まれるだけで、一つにまでは決定されない」としたところで、残る選択肢の中から最終 的に決定する局面で、結局は無差別的偶運に訴えることになるからである。さて、先行条件に依存しないこのランダム ..... ネスのおかげで、われわれの行為が自由になるだろうか。こうして同じ問題が存続するのである。 .... 他方、まさに両立主義の立場は、決定論のもとでの自由を主張する。曰く、自由な行為にも先行条件による決定はあ る。自由は、決定原因の存否によってではなく、当の原因が外的であるか内的であるかによって決まる。自由は、決定 性一般と対立するのではなく、強制に対立する6。外的な原因によって行為が決定されるならばそれは「強制」であろう が、内発的な決定によるものであれば自由と呼べる。したがって、決定論を認めた上でも自由の有意味性は確保できる、 と考えるわけである。ホッブズやヒュームの名があげられるのが通例であるが、ここではスピノザをあげておこう。 「自 由と言われるものは、…それ自身の本性によってのみ行動しようとするものである。だがこれに反して、…強制されて いると言われるものは、…他のものによって決定されるもののことである」(『エチカ』第一部、定義 7)。 さて、「自我から、そして自我のみから発出する行為を自由と呼ぶ」(DI, 130 [192])とするベルクソンもまた、上述の ような布陣のなかでは、両立主義の立場に近いものとして、まずは現れるだろう。しかも、彼は、無差別な非決定性を きっぱりと批判してもいる7。ベルクソンにとって、自由な行為が、先行条件によってなんら決定されないような、何か 発作的・突発的な無差別事象ではないことは、疑いない。だが他方で、これも同様にはっきりしている(が故にやっか いな)ことだが、自由行為をもたらすに至る内的プロセスが、必然的な因果的決定であるということを、ベルクソンは どうやっても認めないのである(心理的決定論の批判)。 無原因でもないが必然的決定でもない、と述べれば問題が片付くわけではないということは、さきほど見たばかりで ある。とすれば、ベルクソンは、いかなる論拠によって、この内的決定の問題を回避しているのか。自由行為が、 (自我 全体という)「最良の理由」(DI, 128 [189])に導かれるものでありながら、なお、この理由によって「必然化」されない のは、なぜか8。この点を見定めることが、彼の自由論の固有性を理解する上で重要となる。このためには、「可能性」 や「必然性」といった様相概念が、ベルクソンによってどのようにとらえられているかを解明する必要がある。 4 Van Inwagen, P. and Zimmerman, D., Metaphysics: The Big Questions, 1998. もちろんよく知られているように、すでにライプニッツは、ビュリダンのロバにみられる「均衡無差別」を批判して、「傾け るが強いない」ような何らかの「緩やかな決定」のモデルを、必然的な原因性とは区別されたものとして主張していた。 6 ほかの選択肢がない状況下でも人に自由を帰すことができる事例として、フランクファートの議論(ブラック&ジョーンズの 例)が有名である。Harry G. Frankfurt, “Alternate Possibilities and Moral Responsibility”, The Journal of Philosophy, Vol. 66, No. 23., pp. 829-839: http://www.unc.edu/~dfrost/classes/Frankfurt_PAP.pdf. 7 「動機なしに選択できるということを証明するために、日常的で、どうでもよくさえある生の諸事情に範例を求めたのは誤り であった。こうした無意味な活動が何らかの決定動機に結びついていることは難なく示せるだろう」(DI, 128 [190])。 8 「行為者因果」説との関係についても論じるべきであるが、紙幅の都合で削除した。 5 2 2. 様相概念の検討 では、様相概念の検討に移ろう。ベルクソンによる様相理解を、スピノザによるそれを比較することは有益だろう。 ベルクソンによる〈可能性〉批判と、スピノザによるそれには、一定の共通したモチーフを見いだすことができるから である。それは、方法論上の内在主義とでも呼ぶべきものである。二人は一貫して、実在をそれ自体において把握する 代わりに、これを取り巻く何らかの「外部」に訴えて認識しようとする探求態度を採らない。たとえば、この宇宙の産 出的展開を説明するのに、超越神の介入を認めない点でも、二人は共同戦線を張っている。ベルクソンが『創造的進化』 において体系的批判を展開する、可能性、虚無、そして無秩序という、三つの概念について、スピノザもまた、この宇 宙を構成する実在的なものとしては認めないだろう9。現実だけが、存在だけが、秩序だけが、ある。 しかし、一致はそこまでである。両者どちらも〈可能性〉を非実在的なものと見なす点では一致しているが、そう見 なす理由は異なる。端的に述べておけば、スピノザにとっては、 〈可能性〉は、自然の必然性に対する認識の欠如から来 る(がゆえに非妥当な)ものである(『エチカ』第四部定義 4)のに対して、ベルクソンにとっては、逆にそれは知性に よる構成物であり、その意味で認識の過剰から来るものである。 ただし、批判がこの概念のどこに向けられているかについて、誤解をしてはならない。様相概念は、ベルクソンによ れば、実在をより効果的に活用するために知性によって編み出された認識図式の一つであり、所与の現実を拡張し仮想 領域を拓くものであるから、たしかに実在に対応するものではないにしても、一定の認識論的な利便性を持つ以上は、 そのことでもって非難されるべき種類のものではない。そうした事情は、 〈否定〉や〈想起〉 ・ 〈予期〉の能力など、その 他の現実拡張的認識能力の場合と同様である。ベルクソンが批判の矛先を向けるのは、本来は時点依存的な性格を持つ (と彼が見なす)様相概念が、時間を超脱したものと見なされる(とりわけ過去へと遡行的に投射される)に至る場合、 ..... この回顧的錯覚に対して、である。 2.1. 分解・複合能力としての知性、その起源 順次確認していこう。まず、様相概念が分解・複合能力(としての知性)によって構成されるものであるという点に ついて。この論点に関しては、野矢茂樹が、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における、(事実からなる)「世 界」から(可能的事態からなる) 「論理空間」への拡張について施している解説が、大変示唆的である10。野矢によれば、 われわれが、「のっぺらぼうの事実 11」しか手にしないとすれば、可能性の了解はあり得ない。「像」によって所与の事 実を分解・分節するという、われわれの言語的営みを通じて初めて、現実に成立している事態を構成している組み合わ せとは別の組み合わせとして、〈可能性〉が浮かび上がるのである。 これと全く同様に、ベルクソンにとっても、可能性は、対象を分解・再構成する能力(ベルクソンにおいてこれは「知 性」と名付けられる能力である)によって構築されるものである。ただしベルクソンが付け加える(そしてウィトゲン 9 興味深いのは、これに対して、「可能性」の先行性や「虚無」の先行性ということで、われわれが真っ先に思い浮かべるであ ろう哲学者であるライプニッツが、 「無秩序」の観念については、これが実現可能でないばかりでなく、 「虚構することさえでき ない」ものと断じていることである(『形而上学叙説』6 節)。 10 野矢茂樹、『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(ちくま学芸文庫)、2006。 11 同書、36-37 頁。 3 シュタインがもっとも語りそうにない)のは、この知性が、没利害的な思弁を本性とするものではなく、功利的起源を 持つ、という点である。像を操作する想起能力に端を発するこの能力は、物質を道具として扱い、活動を拡張するもの として発達してきたという進化論的な由縁がある。 経験の紡ぐ糸にただ単に追随するだけの精神にとっては、空虚は存在しないであろうし、無も—相対的ないし部分 的な無さえも—存在しないであろうし、否定も可能ではないだろう。…(略)…この精神に、(i)記憶力、そしてと りわけ過去にのしかかろうとする欲求を与えてみよう。(ii)解体し区別する能力を与えよう。するともはや、単に経 過する実在の現在の状態にしか目を留めないということはなくなるだろう。経過を変化として、したがって、あっ ..... たものとあるものとの対照として表象するようになるだろう。そして、(iii)想起される過去と想像される過去との間 ...... .................... には本質的な違いはないのであるから、この精神は、早くもすでに、可能的なもの一般の表象をもつにまで至って .. いることだろう(EC, 293-294、数字と傍点強調は引用者による)。 注目すべき論点は三つある。一つ目は、知性の起源が、記憶力、しかも(後に示すようにこれが重要な点であるが) ........ 想起能力としての記憶力にある、という点。突然言語がやってきて、対象を無目的・恣意的に分解し始めたわけではな い。実際に生じた変化を対比によって認識するという要求があり、こうした原初的場面において、過去の状態を心的表 象(像)として再現出させる能力(想起能力)を持つことが、まずは必要であっただろう。そして、二つ目に、比較・ 対照は、どこが同じにとどまりどこが異なるかを見て取ることであるから、所与の事実を、その表象像によって諸部分 へと任意に分解・解体する能力(分析能力)を要求するだろう12 。第三に、このように断片化された心像を、事実とは 異なる仕方で複合する能力(想像力・構想力)は、過去の事実を対象として心像を形成する想起能力の応用的拡張に過 ぎないから、ここから自在な再複合能力としての(ベルクソン的意味における) 「知性」と、その相関者としての「可能 的なもの一般」が得られる、という筋書きである。 2.2. 様相の時点依存性 知性の本性に関する以上の規定から、様相概念に関して、いくつかの重要な特徴が導かれる。 まず、様相概念は、等質的な分解・複合モデルに依拠している以上、諸要素が単純総和されるような全体については 妥当であっても、 (ベルクソンの考える〈魂〉に見られるような)諸要素の融合による全体論的効果、また逆に(彼の知 覚論・意識の発生論に見られるように)諸要素の切り離しによる「異質的部分論」的効果(既存の適切な名前がないた め、こう呼んでおく13)を把握するには本性上適さない、という点。以降の便宜のために、この二点をあわせて事物の 〈異質的本性〉と呼んでおこう。 12 ここでベルクソンは「変化」を認識すると述べているが、これは変化をそれ自体において把握することではなく、変化以前 と変化以後という、変化の両端に位置する二つの状態の外在的な比較が問題となっている点には、留意すべきである。二つの状 態の比較は、比較の目的・功利的関心に依存した恣意的な着眼にもとづく。意図的になされる想起は、(それ自体で明らかなよ うに)想起の意図に従属している。 13 「全体論」との対称性から、ほんとうはシンプルに「部分論」とやりたいところだが、これはすでにメレオロジーの訳語と して一部で用いられており、通常のメレオロジーは分解再構成と通じての等質性を公理としている点で述べたいことに反するか ら、仕方なく「異質的 heterogeneous」という形容詞をつけた。 4 第二に、描かれる可能性の総体は、われわれの認識の解像度に依存しているという点。低い分解能しか持たない知性 にとっては、可能性の了解は相対的に乏しいものとなるはずである。ライプニッツにおける神の知性であれば、分析の .... 終局 terminus として最単純な項を得(単純知性14)、ここから無限演算によって絶対的な意味ですべての共可能的組み合 わせを導出する(直観知)だろう。しかしベルクソンにおける人間の知性は、その時点での関心と能力に相対的な仕方 でしか、可能性を扱わない。 ここから第三に、そしてこれがもっとも重要な点であるが、様相が時点依存的である(同じことだが、実在に対して、 可能性はつねに事後的なものである)点。可能性の総体は、ア・プリオリに与えられるものではなく、知性によってそ れが構成される時点において入手可能な像の総体を元手にしているから、仮に未来において現実に生起するものであっ ................ ても、既存の要素から複合できないような可能性については、当該時点においてこれを含むことができない。 2.3. 論理空間のダイナミズム、および様相に関する回顧的錯誤 ..................... この様相の時点依存性は、〈可能性の総体は、時間の中で動的に更新される〉という、決定的に重要な描像を導く。 .............. 先行する瞬間 t1 において入手可能であった像によって構成された論理空間においては、可能ではなかったような事態が、 瞬間 t2 において生じることに、何の矛盾もない。これは、上述のような時間依存的様相概念においては、むしろ当然の ... ことである。可能でなかった事柄は、文字通り(比喩ではなく)、可能になる。 「実在的なものが可能になるのであって、 可能的なものが実在的になるのではない」(PM, 114-115)。なぜなら、知性は、可能的事態を構想するに際して、まずは 事実の分解によってその要素的対象を得るから、その時点で想起可能な過去の諸要素からの複合によって表現できない ような新規さを有する事態については、知性はこれを構成(予見)することはできないからである。 くり返せば、現実に生じる事態を、様々な目的の下で解釈し応用可能性を切り開き、そうして生をより豊かにする限 りにおいて、想像力も知性も、したがって、可能性の総体の中でこの現実をとらえ返すことも、なんら非難されるべき 能力ではない。だがベルクソンが注意を喚起するのは、こうして操作的に獲得されたものに過ぎないはずの様相概念と、 時間との関係なのである。本性上時間に依存したものであるはずの様相概念が、時間を超えると詐称するとき、ひとは、 時間がもたらす、〈新しさ〉、〈予見不可能性〉、つまり、ベルクソン的意味における〈自由〉をとらえ損なうことになる からである。こうした過去への遡行的投影 mirage (PM, 111)については、以下の引用を挙げておこう。 実在が、予見不可能で新規なるものとして創造されるにつれて、その像 image はその背後へと、無際限な過去へと ........ 反映される。実在はこうして、ずっと可能であったということになるのである。しかし、実在がこれまでずっと可 ............. 能であったようになり始めるのは、まさにその瞬間においてなのであって、私が以下のように述べていたのも、ま さにそれ故である。すなわち、実在の可能性は、その実在性に先行するものではないのだが、実在がひとたびあら われれば、実在に先行していたことになるだろう、と(強調引用者、PM, 111)。 14 この「単純知性」と、続く「直観知」については、以下で論じたので、参照していただければ幸いである。平井靖史 (1998), 「世 界の選択と諸モナドの創造」, 『哲学誌』40 号, 東京都立大学哲学会, pp. 96-112ff. 5 ..... 以上の考察から、さしあたり、ベルクソンにおける予見不可能な新しさを創発するものとしての自由を、可能性の総 ....... 体の時間内変化によって、規定することができるだろう。ベルクソンが両立主義に近づきながらも、決定の「必然性」 を認めることがなく(したがって非決定性を主張でき)、かと言って、無差別性の難問に陥ることもない理由は、以下の .......... ように述べることで一定の説明を与えることができる。すなわち、 〈自由〉であるということが、先行する時点における ..................... 可能性の総体に含まれないという意味において〈新しい〉ということであるなら、これを仮に必然的であると言えるよ うになるとしてもそれは、その決定がなされた時点以降に構築された論理空間においてでしかない、言い換えれば、こ ............ の決断が為される際には、いまだ必然的ではなかったのである、と(様相の時点への従属)。 2.4. 様相から時間へ ............ ただし、様相概念との対比において把握される自由概念のこうした規定は、依然として外在的なアプローチにとどま ...... るものである。論理空間の動的変化は、宇宙の持続の結果であって、原因ではない。したがって、今や、時間概念の側 ... からの自由概念の内在的分析へと移行するべき時だろう。 節の移行に際して、やや長いが、以下のテクストを引用しておこう。本節のまとめとして有用であるだけでなく、次 節の分析にとって重要な論点が集中的に登場するからである。 ........ 可能的なものをその正しい位置に戻そう。そうすれば進展はプログラムの実現とはまったく別のものとなり、未来 の戸口は全面的に開放され、制約なき領野が自由へと委ねられる。哲学史の上では非常にまれとはいえ、世界のう ちに非決定性と自由の余地を認めることのできた学説もあったのだが、これらの学説の誤りは、自らの主張の含意 するところのものをよく見ずにいたことにある。非決定性とか自由とかを口にする際に、これらの学説は、非決定 ................... を可能的なものの間の競合、自由を可能的なものの間の選択と考えて、あたかも可能性なるものが自由の方によっ ................. て創出されたものではないかのように考えていた。ほかのどんな学説も、可能的なものが実在的なものに観念的な ......... 仕方で先在することを認めることで、新しいものを古い要素の並び替えにすぎないものに還元してしまう。ほかの ............ どんな学説も、こうして、遅かれ早かれ、新しいものを計算可能で予見可能なものとみなすに至るはずである。敵 対する理論の要請を受け入れることで、自分の陣地にわざわざ敵を導き入れる羽目になってしまっていたのである。 もう観念して認めるほかない。実在的なものが可能になるのであって、可能的なものが実在的になるのではないの だ(PM, 114-115)。 3. 時間の実在性の表現としての自由 時間はなぜ存在するのか。時間固有の働きとは、何か。ベルクソンは、繰り返し問う。 「なぜ繰り広げられてしまって いるのではなく、繰り広げられつつあるのか」、「なぜ実在は展開されつつあるものであって、展開されてしまったもの ではないのか」(PM, 101)。時間があることによってのみもたらされるものとは何か。 それが、 〈予見不可能〉な〈新しさ〉の創発としての、 〈自由〉である。 「プログラムの実現」は、あらかじめ含まれて いたものの展開に過ぎない。したがって、そこに時間がかかるとしても、時間は単に名目的な仕事しかしていない。時 6 間が経つことでしか生じないもの、時間が繰り広げられることで初めてもたらされるもの、それをこそ、ベルクソンは ....... 〈予見不可能〉な〈新しさ〉と呼んだのであり、 〈自由〉を擁護するとは、こうして、この宇宙における時間の存在意義 を積極的な仕方で確立することを要求するのである。 ベルクソンにおいて、 〈予見不可能性 imprévisibilité〉 〈新しさ nouveauté〉は、時間のもたらす創発性を特徴付けるテク .............. ニカル・タームである。 「時間は、……絶えず、予見不可能なもの、新たなものを自ら創造している」(強調引用者、EC, ......................... 339)。そして、この創発性が、時間の実在性を規定している。 「時間は創作である。さもなければ時間は何ものでもない」 (強調原文、EC, 341)。時間の存在意義は、その創造的貢献にこそ、ある。 だが、この一見単純な〈新しさ〉という概念は、おそらくはその単純さゆえにであろうが、たいへん厄介な、把握し にくい概念である。第一に、先ほど触れたように、 「古い要素の並び替え」 (組み合わせの新しさ)から、この〈新しさ〉 を区別しなればならない。これは所詮、論理空間のうちにすでに与えられているもの(したがって原理的には予見可能 なもの)に過ぎないからである。それがたまたま現実の予想に反していたとしても、それはせいぜい「予想外 imprévu」 なものにとどまるだろう15。ベルクソンが、時間が、「これまで存在したものに新たなものを付け加える」と述べた直後 .. ........ に、わざわざ付け加えて、 「そればかりではない。それは単に新しいものではなく、予見不可能なもの l’imprévisible なも のである」(強調引用者、EC, 6)と述べるのも、この積極的な意味における〈新しさ〉を、二項間の比較に還元可能なも のとさせないためである。 第二に、それは「無からの創造」といった、質料的な意味に解された新しさでもない。ベルクソンにとっては虚無の 概念もまた、知性による虚構であり、実在に先行するものではないからである(cf. EC, chap. 4)。そこで、この〈新しさ〉 を、知性から独立に、したがって事後的な分解・複合モデルに訴えることなく、内在的に、その生成機序にしたがって、 ........ それ自体において把握する16必要がある。そのためには、時間の創発的作用そのものを、検討対象としなければならな いだろう。 3.1. 時間論の観点からの存在論の拡張:過去実在論 すべての過去はそれ自体で保存される、というベルクソンの主張は、さしあたり、いわゆる〈過去の不可侵性〉から .. .. 理解することができる。ひとたび生じた出来事は、後から変更すること、ましてや消去することはできない。したがっ ......... て、質的に数的にも同一なまま存続する1718 。この宇宙に生じた一切の出来事が、勝手に消え去ってしまうことなどない。 15 「予想外 imprévu」と「予見不可能 imprévisible」の区別については、2007 年日本で開催された『創造的進化』刊行百周年記 念国際シンポジウム「生の哲学の現在」にて、仏語で行った発表( « Imprévisibilité comme liberté chez Bergson »)において詳し く論じた。 16 注 30 で触れるように、不可識別者同一の原理の内的バージョンにおいて、ライプニッツは、各実体の数的差異は内的知覚の 差異に基づくと見なしていた。その際、各モナドは「それ自体において他から区別される」と述べている。これは驚愕すべき論 点である。普通、区別というものは、何か対照されるべき項との比較を通じてなされるものであるが、各モナドの還元不能な個 的唯一性は、 「それ自体において」、すなわち他との比較を俟たずして(そして現に内的知覚を比較することなどできない)確立 されると考えている。 17 この論点にかんして、出来事の存在論から時間の諸問題を論じた伊佐敷氏の以下の書が示唆に富んで決定的に有益であった。 記して感謝したい。伊佐敷隆弘、『時間様相の形而上学 現在・過去・未来とは何か』、勁草書房、2010 年。 18 言うまでもなく、過去のできごとについての「解釈」は変動する。しかし、解釈がどのように変動しようとも、それは質的に も数的にも変わらない過去そのものについてのものであることは要請されているだろう。その都度の想起における相貌が大幅な 変容を被るときでさえ、それは、 「それ自体においてみれば、必然的にはじめのときのままずっと存続する」(強調引用者、MM, 7 それらは、生じた順に、片端から、もれなく保存されていく。「一度知覚された過去が消滅するという根拠がないのは、 ちょうど、われわれが物体を知覚するのをやめたらその物体が消滅するという根拠がないのと、同じなのである」(MM, 157)。 ..... 物体が知覚されずともそれ自体で存在するのと同様に、過去は、想起されなくともそれ自体で存続する1920 。こうした 〈過去の即自的保存テーゼ〉が、現在空間を占める物質のみを存在者と見なす狭隘な物理主義に対する批判を含意する ことは一目瞭然であろうが、同時にこのテーゼは、アウグスティヌスに端を発する、過去を記憶表象に(したがって現 在に)還元しようとする過去についての主観主義から、明確に一線を画している。したがって、ベルクソンによる過去 実在論、存在論の大幅な拡張は、(単に物質的事物のみならず、心的実在を含めようとも)「現在を占めるもの」だけが 存在しているとする広い意味での現在主義(=空間主義)存在論へのアンチテーゼであると考えるべきだろう。 かくして、ベルクソンにおいて過去は、時間軸上に並ぶ時点の一定の集合などではなくなり、「存在様相」化される。 .... 過去と現在との違いは、「(もはや)存在しないもの」と「存在するもの」との違いではない。そうではなく、ともに存 .... 在するが、その存在の位相を異にするもの同士の違いであり、同時に存在するにもかかわらず、空間を満たす現働的な 部分(現在)とは区別された〈過去〉の存在様式を指示するためにベルクソンが用意した、すぐれて存在論的な特務を 担ったタームが、「潜在的 virtuel」だったのである2122 。 3.1.1. 線形表象の何が非妥当な空間化なのか 因果的決定論は、一般に、時間軸上に原因と結果連鎖が配列されていることを表象する。時間の線形的な表象を、時 間を空間化するものであるとして批判するということが、しばしばベルクソンに帰せられることがあるが、ここで思い 違いをしてはならない。なぜなら、過去の出来事が継起順序に従って配列されて保存されるものあるということは、ベ 84)。保存される出来事は、 「完全に自足して se suffit absolument à elle-même」(MM, 85)おり、 「生じたときのまま存続する」(ibid.)。 19 したがって過去の保存は、われわれ各自の仕事ではない。ベルクソンによれば、脳は記憶の保存の器官ではなく想起の器官 である。たとえ「記憶力」を主語にして語られる場合でも、それはわれわれの意志によって発動されるような「能力」ではない ことを、ベルクソンは明言している(EC, 4-5)。以下に列挙する引用は、主語が「記憶力」 「時間」 「過去」と異なるが、すべて同 じ事態を記述するものである。 「〔第一の記憶力は〕おのおのの事実、おのおのの挙措に、その場所と日付を残す。役に立てようとか実践に応用しようとか いう下心なしに、それはただ本性的必然性の効果のみによって par le seul effet d’une nécessité naturelle、過去を蓄積していく」(MM, 86)。「自発的記憶力は出来事に日付を与え、一回きりで記録する」(MM, 89)。「時間は、記憶力のためにイマージュの場所と日 付を保存する」(MM, 88)。 「過去のそれ自体における残存」(MM, 166)。 「われわれの過去は、…必然的に、自動的に保存される。 それは全面的に残存する」(PM, 152)。 さらには、 「意識」を主語にして語られる場面もあるため、注意が必要である。 「意識は、自らが順次経由した状況のイマージ ュを保持し、それが生じた順序で配列する」(MM, 89)。 また、知覚が、それ自体で存在する物質に(その部分においてであれ)到達しているのと同様に、想起も、それ自体で存在す る過去に(その部分においてであれ)到達する。ただし、知覚の場合には、この部分そのものが知覚内容を構成するのだが、想 起の場合には、想起者と想起対象の時間的隔たりのために、想起によって取り出された「結果(内容)」は、 (想起時点における 想起者のうちで形成される、したがって想起対象である過去の出来事そのものとは数的に区別される)心的イメージの形をとる。 だが、想起の「対象」は、あくまでも(心像ではなく)この実在する過去そのものである(直接想起説)。 20 「過去は、生体にとってはおそらく、そして意識的存在にとっては確実に、ひとつの実在である」(DI, 116 [173]) 21 したがって、この意味で、ベルクソンの理説を単に時間論と呼ぶのは適切ではなく、時間存在論と呼ぶべきであると私は考え る。 22 さらに言えば、現在に加えて過去「も」存在しているどころではない。過去こそが「存在」の名に値するものなのであり、 対して現在は、その末端の生成部分、 「動的先端」(MM, )に過ぎない。 「ひとは勝手に現在を「存在するもの ce qui est」と定義し ているが、実際には、現在は単に「生起するもの ce qui se fait」に過ぎない」(MM, 166)。 現在ですらそうであるから、ましてや、未来は形而上学的な意味では実在せず、単に表象的なものでしかない。したがって、 純粋に形式的に見れば、ベルクソンは「成長ブロック説」を採っていることになる。だがその内実はこれから見るように、きわ めて独自のものである。 8 ルクソン自身の主張でもあるからである(実際、そうでなければわれわれが想起中に前後に移動調整することはままな らないだろう)。「意識と外延を等しくするこの記憶力は、われわれの状態を、すべてそれが生じるにしたがって順々に 保持・配列し、これらのおのおのの事象に、その場所を残し、したがってそれに日付を記す」(MM, 168)2324。 では何が問題なのか。線形表象は、各時点において、保存されている膨大な過去を無視して、その都度の空間を満た しているもの(それが物質であろうと、心的実在であろうと)のみを存在者としてカウントしている。ここにこそ、ベ ルクソンの批判する空間主義=現在主義がある。この点で、物理的決定論も、心理的決定論も、同様の前提を共有して ............................................... いる。要するに批判されているのは、結果として描かれた表象像が「空間的な姿形をもっている(たとえば線形である) ....... こと」ではなく(そのような(表現メディアそのものの制約に起因する)不都合ならば、時間の問題に限らず伴いうる だろう)、表現される内容が、すでに空間に偏向した存在論に基づいている、という点なのである25。 では、こうして配列された〈現在の羅列〉の各要素に、その時点での過去の総体を描き添えれば話はすむかと言えば、 そう簡単にはいかない。保存されている過去の総体が、現在の進行に合わせて時間軸を移動するわけではないからであ る 26。過去は絶えず増大するが、出来事のおのおのへと日付が内在的な仕方で書き込まれることにより、過去の総体そ れ自体の存在は、(奇妙な言い方に響くが)超時間的なものとなる。 3.2. 過去によってもたらされる〈異質的〉新しさ 以上で、ベルクソンの提案する、過去によって拡張された時間存在論を確認した。しかし、保存された過去が、ただ 存在しているだけで、現在と断絶したまま何の交渉もないならば、存在論のこうした大々的な書き換えのもたらす、自 由論にとっての理論的インパクトはたいしたものではなかっただろう。 過去を利用するすべを知らない、生命なき物質にとっては、過去は死蔵されているも同然である。しかし、生命ある 存在において、この過去は、現在へと多様な仕方で取り込まれ、現在に干渉する。過去がもたらすこの影響によって、 単なる〈現在の羅列〉としての因果系列によっては説明されない変化が、宇宙にもたらされることになるだろう。 3.2.1. 〈想起(想像)27〉 23 主語として用いられている「記憶力」は、時間そのものの非人称的な働きであって、個人に帰せられる「能力」ではない。 注 19 を参照。 24 ここで「日付」の概念が登場するが、出来事の非再現性をもたらすものとして重要である。ひとたび生じた出来事が、変更 も消去もされ得ないこと(不可侵性)と、それが再び生じ得ないこと(一回性=反復不可能性)は、別な事柄であるからである。 ...... 出来事が日付を有することは、出来事の「本質」に属する事柄であり、出来事が非再現性を持つのは、この日付のおかげであ ると、ベルクソンは述べている。 「出来事はその本質上日付を持ち、したがって、反復され得ない」(MM, 84)。 「出来事の本質は、 日付を持つことであり、したがって、二度と再現されない」(MM, 88)。 ベルクソンは過去の自動保存は、われわれの意志によるものでも、偶運によるものでもなく、「ある本性的必然性の効果のみ によって」(MM, 86)なされる、と述べているが、その内実として、出来事の本質としてのこの一回性を考えることは許されるの ではないだろうか。 また、この非再現性は、保存される出来事のそれであり、心理状態のそれとは、事柄としても別であり、その根拠も異なる。 後者の反復不可能性は、凝縮の効果であるからである。注 32 参照。 ... 25 加えてもちろん、実際に線形秩序を構成しているのは、その時点での過去の出来事に限られるはずであるのに対して、これ ..... を恣意的に、未来にまで伸張している点も、無害とは言えない。「われわれの記憶力は、過ぎ去った継起を常に並置の形で表象 する。もっとも、そうしたことを記憶力がなし得るのは、まさに過去が、すでに創作されたもの、死せるものに属しており、も はや創造にも生命にも属していないからであるが」(強調原文、EC, 341)。 26 この点で、昨年のシンポジウムの予稿に掲載した図はミスリーディングであったため、撤回した。 27 直接想起説の射程については、ここでは触れない。注 19 を参照していただきたい。 9 生物による過去の現在への再利用の仕方は、大きく分けて、〈想起〉と〈凝縮〉に二分される。〈想起〉の方は、ある 程度高度に発達した生物によって獲得された能力ではあり、すでに見たとおり、とりわけ人間においてはその発展応用 版とも言うべき〈想像〉が多大なる恩恵をもたらしもしたのではあったが、その本質的に功利的な制約からして、目下 検討している、〈予見不可能〉な異質的〈新しさ〉に対する貢献は乏しい28。新しさをもたらすのに決定的な役割を果た しているのは、むしろ、〈凝縮〉の働きである。 3.2.2. 〈凝縮〉とは何か 〈凝縮 condensation, contraction〉にも、複数の形態がある。そこでまずは、〈凝縮〉の一般的規定を与えておこう。簡 単に述べれば、 〈想起〉 (および〈想像〉)が、過去全体から部分の分離、単一出来事の諸要素への分解(「多」への解体) に基づくイメージ形成能力であったのに対して、 〈凝縮〉は、逆に、複数要素の融合(相互浸透)による単一化の働き(多 の「一」への複合ならざる有機的総合)であり、その効果として、諸要素には含まれなかった質的相貌(異質性)を全 体にもたらす点が特徴である(異質的本性)。凝縮の素材となるのは、保持ないし保存されている過去であるが、その及 ぶ範囲や、凝縮の程度によって、いくつかの作動形態を区別することができる。 (1) 感覚質 〈凝縮〉の働きの初次的な様態として、感覚の主観的異質性(いわゆる感覚質)の生成をあげることができる。それ 自体には色のついていない可視波長の電磁波が、人間の知覚においては固有の質的特徴を帯びるのは、 (きわめて短い幅 とはいえ)過去の現在への凝縮の効果である。たとえば、それぞれ単純な質としてわれわれに現象する赤と黄色の違い は、物理的には、同じ電磁波の波長の違いに過ぎない。したがって、両者の区別が可能であるためには、きわめて短い 時間幅であれ受容した電磁波が一定程度保持されていなければならない。保持されたこの一定の過去を、ひとつのまと まりをもった一つの質感へとまとめ上げる働きが、 〈凝縮〉に託されている(MM, )。過去という潜在的な諸要素は、凝縮 の圧力によって相互浸透し、もとの諸要素がもたなかった異質的性質を帯びるのである。このような、 〈多〉の〈一〉の うちへの集中によって、すなわち与えられた多数の等質的振動を凝縮することによって、ある種の相転移が生じ、感覚 質が生成する、という理説の祖型は、これをライプニッツに見いだすことができる。「「自然」は動物に高められた知覚 .... ..... を与えたが、その眼目は、多くの光線や空気振動を寄せ集め ramasser、それらの統一によって、一層の効果 plus d’efficace をねらったいくつかの器官を動物に与える点にあった、と」(強調引用者、『モナドロジー』25 節)。 ベルクソンによれば、(現代ではクオリアの名で呼ばれるようになった)「感覚的性質の主観性は、まずもって記憶力 に他ならないところのわれわれの意識が、複数の瞬間をたがいのうちに引き延ばすことで、単一の直観の内に凝縮する ことに起因している」(MM, 246)。 28 とは言え、皆無とは言えない。ひとつには、想起のプロセスの途上(心像形成過程)においても、凝縮は作動するからであ る。なお、以下の引用は、 〈想起〉と〈凝縮〉の両者を対比させている点で、示唆的である。 「すでに過去のものとなった諸経験 の記憶力〔〈想起〉 :完了の記憶力〕によって、過去をますますよい仕方で保持して、これを現在と織り合わせて organiser、より .... ..... 豊かでより新規なる決断をもたらすというばかりではない。そればかりか、より強度の高い生を生き、直近の経験の記憶力〔〈凝 縮〉:未完了の記憶力〕によって、ますます多くの外的瞬間を自らの現在の持続のうちに凝縮することで、行為を創出すること がより出来るようになるのである(強調引用者、MM, 280)。 10 そして、過去の錬金術とでもいうべきこの〈凝縮〉こそが、必然的決定の網の目に絡みとられたままの物質から、わ れわれを「解放 dégager」(MM, 256)させてくれる、という意味で、自由の基礎を提供するものとみなされている(cf. MM, 236-237; 249-250; 256)。というのも、単に量的にのみ区別される物理的振動が、質的なものへと「変換」させられる点に、 生物の外界から課せられる「リズム」からの断絶が介在し、これが必然的決定からの「離脱」を可能にしていると、考 えられるからである。 実際、可視波長の電磁波がわれわれに受容されるとき、われわれは同じ場所で同じ電磁波を被爆 ........ ........ している石ころのように、これを一定の物理的振動として受け取り、物理的振動として反作用するわけではなく、 (たと ... えば)端的に「赤」として知覚する。ここに、作用・反作用レベルの推移がある、ということである。 ただし、ここでの凝縮は、それが利用する過去が最小である限りにおいて、そのもっとも低次な作動形態にすぎない。 この意味で、感覚は、その質的独自性がいかに際だったものとして現象しようとも、いまだ「自由の始まりに過ぎない」 (DI, 25 [45])のである。 (2) 人格・性格 反対の極に移動しよう。ある特定の生物個体にとって、最大の過去を凝縮するとみられるケースが、〈人格〉〈性格〉 の理論に見られる。 われわれのすべての決断にたえず現前しているわれわれの〈性格〉とは、まさしく過去の全状態の現働的総合 synthèse actuelle である。この凝縮された condensée かたちで、われわれの過去の心理的生は、われわれにとっては外界にも まして存在する。というのも、外界はそのわずかな一部が知覚されるのみであるが、体験済みの経験はその全体を 利用しているからである。たしかに、それはただ縮約されたかたちで en abrégé のみ所有されているにすぎず、判明 な個体性 individualités distinctes をもったものとしての過去の知覚は、全面的に消失してしまったり気まぐれにしか 現れなかったりするという印象を与えはする。しかし、こうした見かけ apparence は云々(MM, 162)。 一人として同じ個性を有した人間がいないのは、それが、当の人格がこれまでに経験したすべての出来事が、この凝 縮の素材となっている(言い方を換えれば、経験した出来事が異なるならば、性格は変わる)からである。 感覚質にせよ、性格にせよ、そこで利用される過去の分量に差はあれ、凝縮という諸要素の質的融合の効果として、 個別的な独自性がもたらされている点が見て取れるだろう。しかし、こうした凝縮の度合いは、生命そのものの強度に よって一定の水準が保証されるものであり、われわれの意志的関与によって無限に拡張したり、あるいは解除したり29 す ることができるような種類の働きではない。われわれは、ただ生きている、というその効果として、一定の凝縮・相互 浸透の水準を維持すると考えられている。『試論』において、〈人格〉〈魂〉が、(とくに自由行為へと自らを差し向けて 29 「反対に、自分を放任してみよう。行動するかわりに、夢見よう。とたんに、私たちの自我は四散する。私たちの過去は、 それまでは過去が私たちに伝えていた不可分な衝動のなかで自己凝縮していたが、今度は互いに外在化する無数の記憶内容に分 解される、それらの記憶内容は、凝固するにつれて相互浸透することをやめる。こうして、私たちの人格は、空間の方向へと再 び落ちていく(EC, 203)」。こうして、一定の水準まで、凝縮の効果を弱めることはできる。しかし、そうしたところで、われわ れは(最低水準の凝縮効果しかもたないと仮定される)物質の方向へ「最初の数歩を踏み出すに過ぎない」のである。 11 いる場合でなくとも、つねに)その内包する心理的諸要素が相互浸透した〈異質的多様体〉として描かれていたのも、 この(いわばデフォルトで与えられる)自動的な凝縮のゆえであると理解することができる。 (3) 自由行為 かくして、単なる生命の水準で、われわれは、単なる物質が持たない一定の凝縮の働きを、したがってそれによって もたらされる〈予見不可能〉な〈新しさ〉を享受するようにできている、ということになる。しかし、 『試論』が語って いたような、「深刻な状況」(DI, [204])における、「熟慮」「決断」を通じて導かれる自由行為については、それが主体の 積極的・意志的な関与を明確に想定する以上、そこには新たな要素が付け加わっているはずである。 確かに、当該行為において〈表現〉される〈自我〉とは、行為者の過去全体・経歴全体のことであった。したがって、 ここでもやはり、諸要素の質的融合としての凝縮が機能していることは確かである。しかし、今度は、過去の(所与の、 ................. ではなく)意志的な凝縮である。 「熟慮の全瞬間において、自我は変容する……。互いに浸透し合い、互いに強化し合い、 自然な発展によってやがて自由な行為に到達するような諸状態からなる一つの動的系列がこうして形成される」(DI, 129 (191 頁))。 したがって、 『試論』においては、二つの相互浸透を区別するべきではないだろうか。すなわち、生命の凝縮・緊張に ..... よって与えられた相互浸透(これが常時のわれわれの〈魂〉 〈人格〉を構成する)と、意識的存在者によって、積極的に、 ..... 所与の水準からさらに強化される相互浸透とを。 われわれの行動が未来を自由にする度合いは、われわれの知覚が、記憶力によって肥大化することで、過去を凝縮 ...... する度合いにまさに比例しているからである(強調引用者、MM, 236)。 3.3. 心理的決定論の批判 最後に、心理的決定論に対するベルクソンの批判について触れておきたい。残された紙幅の都合で「凝縮」された記 述にとどめるほかないが、ベルクソンがこの心理的決定論の批判において、 〈数的に異なるならば、必ず内的に、すなわ .................. ち(ライプニッツ用語における)知覚 perception が異なる〉という、不可識別者同一の原理の内的バージョン30 (以下 PIIi と略記)を用いている点は特筆に値するがゆえに、ぜひとも触れておきたい。 3.3.1 非再現性 以下の通りである。任意の時点における〈魂〉 (心理状態全体31のこと)を構成する諸要素(感覚質・感情・観念など) 30 「内的バージョン」と呼ぶのは、一般に、そしてライプニッツ自身によってもしばしば、不可識別者同一の原理における「不 可識別性」によって、事物の有する一般的な意味での性質(形状など)が問題とされるケースがあるため、これと区別するため である。われわれは、個体的実体の内的知覚がもたらす「それ自体における差異」を語るこの内的バージョン(典型的には『モ ナドロジー』9 節)の方が、ライプニッツの形而上学にとってより根源的なものであると考えている。この点については、下記 論文を参照していただけると幸いである。「同一者の不可識別性について」、『西日本哲学年報』第 11 号、西日本哲学会、2003。 31 ここでベルクソンが擁護しようとしている非決定論的性格は、あくまでも(「深層」を含めた)全体としての心に帰せられる ものであり、日常生活の大半がもっぱら関与するところの心の「表層」に関して言えば、彼はむしろ連合主義の妥当を認め、し たがって決定論に譲歩しさえしている(DI, [189])点には注意が必要である。そのようなレベルでは、一定の「心理法則」を抽出 できることは否定されていない。 12 は、生命によって〈与えられた凝縮〉の効果として、非離散的・全体論的性格(相互浸透性)を持つ。諸要素のこの有 機的融合のために、各瞬間の魂は還元不可能な個性・独自性を帯びる。あらゆる瞬間のあらゆる心的状態はすべて異な る。 ここから、第一の時間的効果として、(1)心的状態の原理的な非再現性(同じ心理状態は二度生じえない)が得られる 32 。心的状態のこの非再現性から、すでに心理状態間の「法則」が抽出不可能(したがって法則に基づく予測が不可能) であることが帰結する。 3.3.2. 不可識別性 ........... だが、驚愕すべきことに、ベルクソンはさらに、残りの二つの時間的効果に訴えることで、法則性に依拠しないよう ........ .......................... な単純予見ですら不可能であることを示す33 。というのも、質的に同じ心理状態が数的に二度生じないとしても、一度 ......................................... だけ生じるこの数的に同じ状態を、数的に別な主体が先行して認識する可能性があるならば、超越的な観察者による予 見可能性の余地がなお残されてしまうからである。残りの二つの時間的効果とは、心的状態の(2)先取不可能性と(3)伸縮 ................... 可能性である34 。どちらも、任意の瞬間における心的状態が、その瞬間までに当該の魂に生じたすべての出来事の凝縮 による融合体であることから帰結する。 まず、同じ一つの心的状態を、それが当人によって経験されるに先立って、別な観察者が認識することが、(2)によっ て斥けられる。これにより、予見のために残された可能性は、現に当人が経験するのと同じ時点から認識を開始して、 持続をいわば早送りすることによって結論を先取りするという可能性だけであるが、(3)がこれを禁じる。 以上の結果、同じ心的状態を知覚しうる存在者は、 (同じ空間上の位置を占めるのみならず)時間上で同じ起源を有し、 同じ時間幅を占める他ないことになる。ところがこれは数的に同じ人物でしかあり得ない。ゆえに、 〈内的に同じである ならば、数的に同一である〉。これが PIIi であった。 まとめるとこうである。ベルクソンによる心理状態の予見不可能性の主張は、瞬間 t1 における a の心理状態(先行状 態)を知ったとしても、そこから何らかの法則に基づいて後続する瞬間 t2 における人格 a の心理状態を予測することが できない、と主張するにとどまらず、さらに、そもそも a 以外の人物が a の t1 における心理状態を認知すること自体が 不可能である、と主張する点において、きわめて独自のものである。 4. 結論 かくして、心理的決定論は、こうした〈凝縮〉のもたらすさまざまな時間の異質化作用に依拠することで、斥けられ ることになる。生命と意識がもたらす〈凝縮〉の効果として、現在はさまざまな度合いで過去を混入させられることに 32 凝縮の効果による心的状態の非再現性と、日付をもつという本質による出来事の非再現性とを混同してはならない。注 24 参 照。 33 というより〈予見可能性〉を巡る『試論』の論述はむしろこちらに重点が置かれている。 34 これは、〈心的状態は、それが知覚される時に、知覚される間だけ存在する〉という、バークリ流の心的エンティティの観測 .. 依存性テーゼ(esse is percipi)の「時点束縛バージョン」とでも言えるものを含意する。だがベルクソンの主張は、さらに凝縮 ............. による過去の効果があるため、より強い主張であり、実際、これだけでは PIIi は含意されない。現に、過去の影響が無視できる ならば、同じ心的状態が複数の知覚者によって知覚される可能性は、排除されないのである(神による知覚)。 13 なり、その結果として、(3.1.1.節で見たように)現在主義存在論を想定する時間描像を前提とする決定論は、大幅な限 定を受けることになるはずではないだろうか。 自由な行動、あるいは少なくとも部分的に非決定な行動が存在するとすれば、そのような行動が可能であるのは、 ……生成を別々の瞬間へと凝縮し、そうやって生成をなしている素材を濃縮し、自らに同化吸収することで、これ ... を自然の必然性の網の目をかいくぐるような反作用運動へとこなすことができるような、そうした存在だけである (強調引用者、MM, 236)。 宇宙の現在を構成するのが、現在に生成する「現働的なもの」だけであるとすれば、そこでは準決定論がなりたち、 せいぜい消極的な「偶然性」の余地が残るのが関の山だったことだろう。しかし、宇宙の現在空間の背後に控えて、膨 .. 大な過去が存在しているとすれば、そして生命ある存在(あるいは意識ある存在)が、これを〈凝縮〉という形で現在 のうちに取り込むとすれば、事情は別であろう。これは「不可能であった可能性自体を創出する」という様相的な意味 においてのみならず、それ自体は離散的に保存されている過去の異質的融合による時間的諸効果として刻々と創出され る異質的本性としても、 〈予見不可能な異質的新しさ〉を宇宙に供給しつづける。これが自由の問題を「時間の関数によ って」立て直す、というベルクソンの野心的な企画なのである。 14
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