この人を見よ - church.ne.jp

2014/4/6
門戸聖書教会 礼拝説教
ヨハネの福音書講解 76
ヨハネ 19:1-16
この人を見よ
1.エッケ・ホモ-この人を見よ!
今 日 から、新 しい年 度 に入 りますが、イエス様 の受 難 を覚 えるこの季 節 、 引 き続 き『ヨハネの福 音
書』からともに学んでまいりたいと思います。
ちょうど今 頃 、受 難 節 の季 節 になりますとエルサレムは世 界 中 からの巡 礼 の人 々で賑 わいます。
特に、クリスチャンたちが向かうのは、旧市 街にありますヴィア・ドロローサと呼ばれる坂道です。本当
にそこであったかどうか分かりませんし、イエス様の時代の遺 跡は地 面を掘り返 さないと出てこないわ
けですが、イエス様が十字 架を負って歩 まれた道と言われています。巡礼 者や観 光客がその道をた
どりつつ、聖書の時代に思いを馳せるわけです。
そのヴィア・ドロローサのスタート地 点 近 くに、「エッケ・ホモ教 会」と言 う変 わった名 前の教 会があり
ます。「エッケ・ホモ」とはラテン語 で「この人 を見 よ」という意 味 の言 葉 です。ちょうど、今 日 の ヨハネ
19:5 で、ピラトがイエス様を引き出してこう言っていますね。
ヨハネ 19:5 「さあ、この人です」
この「さあ、この人です」と言われている言葉、それをラテン語にすると「エッケ・ホモ」となるのです。
インターネットから、その「エッケ・ホモ教 会」写 真 を拝 借してきました。これは東 京 聖 書 学 院という
神 学 校 の信 徒 コースのみなさんが聖 地 旅 行 をされた時 の写 真 のようです。 1 これを見ると石 造 りの
立派な教会ですが、これは恐らく後世に建てられたものでしょう。 注目すべきは、むしろ、この教 会の
地下にある敷石です。これは 2000 年前にこの地にあった要塞の石畳です。ローマ兵たちがゲーム
をした跡までが残っているそうです。ピラトの官 邸がこの場 所にあったかどうかは、考 古学 者によって
異論があるそうですが、もしかして、今日の聖書の箇所に出てくるローマ兵たちが、まさにこの石畳の
上で賭け事 に興じたのかもしれませんし、 13 節 に、イエス様が「敷 石 (ヘブル語ではガバタ)と呼 ば
れる場所」で裁かれたとありますが、それはまさにこのような石畳の上であったのかもしれません。
「エッケ・ホモ」-「この人を見よ!」「さあ、この人です」-この人を、あなたがたは、どういう人だと 思
うのですか、何 者 だと考 えるのですか? あなたがたはこの人 をどうしてほしいというのですか? あ
なたは、このイエス・キリストという方を見て何を思い、何 を考えるのですか? 「エッケ・ホモ」-「この
人を見よ!」 ピラトが発したこの言葉 は、彼の思いを超 えて、あらゆる時 代の人々の心を探り、考 え
させる言 葉 となりました。今 朝 は、私 たちも、「エッケ・ホモ」-イエス様 に目 を注 いでこの方 はどなた
であるかに心潜めてまいりましょう。
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http://tbsisuraeru.holy.jp/index.html
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2.ピラトの一計
さて、前回までのところ、ヨハネ 18 章では、イエス様が捕らえられて、ローマ総督ピラトの官邸に連
れてこられ、裁 判が始まったところまで学 びました。ピラトは、祭 司長たちユダヤの指 導者たちが、妬
みからイエス様を抹 殺しようとしていること、イエス様が無 実であるということに気づいておりました。と
いうより、主イエスのあまりの落ち着きと威厳に、この人物は只者ではないと驚いてもいたのです。
ピラトは何とか、イエス様を釈放しようとあの手この手と試みます。
初めに、彼がしたのは、18 章の終わりのところに出てきますが、過越しの祭りの時の恩赦を利用す
るということでした(39)。先ごろ、強盗と殺 人のかどでつかまったあの極 悪人バラバと、イエスと、どち
らを釈放しようか? しかし、その問いに対 する答えはこうでした。
ヨハネ 18:40 すると彼らはみな、また大声 をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバ
ラバは強盗であった。ピラトの目論見は外 れてしまいました。
ヨハネ 19:1 そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。
これは、文 章の流 れからするとおかしなことです。ピラトはイエス様を助けようとしている。 なのに、ど
うしていきなり鞭打ちにするのか? しかも、まだ判決を出したわけでもないのに?
恐らくは、これもピラト流の作戦なのでしょう。ローマの鞭打ちは、聖書ではさらっと書かれています
が、映 画『パッション』でご覧になった方 もおられるでしょう。鉄 の 楔のついた鞭で背 中 を抉るという、
実に残 虐なものです。つまり、これくらい痛めつけたのだから、まあ、この辺で許してやってはどうかと、
妥協案を示そうというわけです。
恐らくはイエス様 はこの時点で血 まみれの無残な姿になっておられるはずです。そのイエス様に、
兵士たちはさらなる侮辱を加えた。
ヨハネ 19:2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せ
た。19:3 彼 らは、イエスに近 寄っては、「ユダヤ人 の王 さま。ばんざい」と言 い、またイエスの顔を平
手で打った。
そうしてイエス様 を散 々痛 めつけて、ズタボロにして、それでユダヤ人 の前 に引っ張 り出 す。鞭 打
ちの後 だから裸でしょう。その頭 には茨の冠と、短 いショールのような紫の衣 。それは傷 だらけの、こ
っけいな裸の王様の姿です。
ヨハネ 19:4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところ
にあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるため
です。」19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。
そして、あの言葉を言うのです。
「さあ、この人です」-エッケ、ホモ! この人を見なさい!
ピラトはまるでスポットライトの中 に、裸で出てくるピエロを紹 介 するサーカスの司会 者 のようです。
彼は言うのです。さあ、この人です!こんなボロ雑 巾のような、みすぼらしい、裸の王様 が、本 当にキ
リストだというのですか。こんな無 様 で、傷 だらけで、何 の力 もない男 など、あえて十 字 架 にかけるま
でもないでしょう。これだけ痛めつけておいたのだから、もうこのくらいで程々にしてはどうですかと。
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3.十字架につけろ
しかし、ピラトの思惑は外れた。いや、むしろ火に油を注ぐ結果となった。
ヨハネ 19:6 「祭司 長たちや役 人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十 字 架につけろ。十字
架につけろ」と言った。
祭司長、役人たち、それから群集もいっしょになって(ルカ 23:13,21)、憎悪をたぎらせ、激しく怒
号を上げるのです。「十字架だ!十字架 につけろ!」。
私 は、何で彼 らがここまでイエス様 に対 して憎しみを募 らせなければならなかったのか、不 思 議 で
なりませんでした。イエス様 がいったい彼 らに何 をしたというのでしょう。親 や子 がイエス様 のせいで
死んだとか、そういうことなら話 は分 かります。でも、イエス様は何 の悪いこともして いない。何 一つ迷
惑をかけたわけでもない。むしろ、ただ、神の愛を説き、多くの者の病を癒し、慈しみと恵みを注 いで
くださったのです。しもべのように仕 え、愛 を尽くしてくださったのです。なのに、なぜ !? 彼らはイエス
様を憎むのか。
「邪悪な農 夫のたとえ」と呼ばれる、イエス様のなさったたとえ話があります(マタイ 21:33-39)。何
度かお話いたしましたし、有名なたとえ話なのでご存知の方もおられるでしょう。
ある主人が立派なぶどう園を作って、そこを農夫たちに任せて旅に出た。
マタイ 21:34 さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのと
ころへしもべたちを遣わした。 21:35 すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋
だたきにし、もうひとりは殺 し、もうひとりは石 で打 った。 21:36 そこでもう一 度 、前 よりももっと多 くの
別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。
実にひどい話です。さらっと語られていますが、現代で実 際にそんなことがあったとしたら、それは
たちまち大ニュースになるでしょう。しかし、さらにこの話はさらにひどい事になる。
マタイ 21:37 しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、息子
を遣わした。
この主 人 はなお農 夫 たちを信 頼 していた。信じていた。それで「私 の息 子 なら、敬 ってくれるだろ
う」。そう言 って、跡 取 り息 子 を遣 わした。けれど、それは裏 目 に出 た。主 人 の信 頼 は最 悪 の結 果 を
もって裏切られた。
マタイ 21:38 すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれ
を殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』21:39 そして、彼をつかまえて、
ぶどう園 の外に追 い出して殺してしまった。21:40 この場 合、ぶどう園 の主 人が帰って来たら、その
農夫たちをどうするでしょう。」
この跡 取 り息 子が、農 夫たちにいったい何をしたというのでしょう。どんなひどい事 をした仕 返しな
のでしょう。全くそういうことではない。しかし、農夫たちは無慈悲にも、この跡取り息 子を殺してしまっ
た。彼らの思いは、この言葉に、集約されている。
「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか」
このぶどう園は、おれのものだ!誰にも渡さん! 俺たちこそがぶどう園の主人なのだ!
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言うまでもなく、このたとえ話に出てくる主人とは神様のことであり、農夫とは我 々人間のこと、ひとり
息子とは、イエス様のことです。そして、このぶどう園とは? それは、私たちの生きているこの世界の
ことであると言ってもよいし、私たちの心 や人生のことだと言ってもよいのではないでしょうか。
確かに、みなさん、私たちはイエス様のことを殺したことはもちろん、「十 字架 につけろ!」なんて言
ったこともないかもしれません。けれども、自 分 の心、自 分 の人 生から、神 様を締 め出していることは
あるんじゃないですか。自 分 は自 分 のやりたいようにやるのだと。俺 の人 生 は俺 のものなのだと。自
分 のいのちが、本 当 は神 様 から委ねられ、与 えられ、生かされていることを忘 れて、いつの間 にか、
自分こそがわが人生のぶどう園の主人だと思い込んでいるのではないか。
聖 書 を読むと気づかされるのです。自 分 は神ではないということに。むしろ、神 の前 には、ひとりの
罪 人 に過ぎないことに。イエス様を前 にしていると、自 分 がいかに罪 深いかが分 かる。いかに聖 さが
ないか。いかに愛がないか。だから、うっとうしい。だからイエス様から目を背 け、忘 れ、遠ざけ、無 視
する。いや、わざわざ無 視 する前 に、心 の中 が、自 分 中 心 の楽しみや欲 得でいっぱいになっている
かもしれない。そもそも忙しくてそれどころではないかもしれない。その状態 は千差 万別でしょうが、そ
うやって、神の存在を心から締め出す。そうして神を殺す。
「十 字 架 につけろ」-それは、私 たちひとり一 人 の心 の奥 底 にある、 最 も深 い無 神 性 、自 らを神 と
する罪の心から出た叫びなのです。
4.この人を見て生きる
かくして、日和見主義者ピラトにユダヤ人たちは激しく詰め寄ります。
ヨハネ 19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子とし
たのですから、律法によれば、死に当たります。」
「ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた」(19:8)
ピラトは非常に怖 くなってきた。おそらく、自分の人生で、目の前にいるこの方ほど、「神の子」と呼
ぶにふさわしい人物がいただろうか?そう心によぎったからでしょう。「あなたはどこの人ですか」(9)と
慌てて聞いている。これは出身 地をいまさら聞いているわけではないのです。あなたはいったい何者
なのですか、ほんとうに神の子なのですかと尋問しているわけです。
ヨハネ 19:10 「しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。」
それはなぜなのでしょう。その答が、ピラトとイエス様の対話の中にあるように思います。
ヨハネ 19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを
釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
19:11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたし
に対 して何の権 威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者 に、もっと大きい罪 があるので
す。」
ピラトは自らが権威の座に座って、主イエスを見下ろしている。「上から」来られた方 を、見下ろそう
としている。それでは何も見えてきません。
4
みなさん。誰かからプレゼントを受け取る時に、手を上げて、手のひらを下向きにしていたら、受け
取れないでしょう。信仰もそれと同じです。恵みを受けるには、「上から」くるものを受 けとめることがで
きるように、手のひらを上に向けなければなりません。
あなたが神 の子 かどうか、私 が決 める「権 威 」があるんですよと、神 を見 下 ろしているうちは、神 は
見えてこないのです
確かに、ピラトはピラトなりに努 力しました。しかし、ユダヤ人にこう言 われて、彼は最終 的な二 者択
一を迫られる。
ヨハネ 19:12 「もしこの人を釈 放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だ
とする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
片方に、「除け。除け。十 字 架につけろ」と叫ぶ祭司 長や群 集がいる。ここでイエスを釈 放するなら、
暴動になったり、皇帝カイザルに上訴されるかもしれない。そうなっては、自分はそれまでだ。
一 方にいるのは・・・ただ、ひたすら鞭 打たれ、いばらの冠を被 せられ、兵 士たちにあざけられても、
平手で打たれても、まるで「ほふり場に惹かれていく羊のように・・・口を開かない」(イザヤ 53:7)人。
ピラトの心の中にあるこの葛 藤、それはそのまま、私たちの心の中にあるものではないでしょうか。こ
の世の王カイザルにつくのか。それとも、十字架にかけられる神の小羊につくのか。
ピラトが選んだのはカイザルでした。祭 司長たちもそうでした。「カイザルのほかには、私たちに王は
ありません」-主の祭 司として、これほどみじめな言 葉 はありません。しかし、それは他 人 事なのだろ
うか。私たちが心の底で本 当 に王と仰 ぐもの、それは何なのか? もしそれが神ならぬ何 かであるな
らば、私たちは、主イエスを確かに十字架 に引き渡しているのです。
今日の聖書箇所で、私自身が一番心 探られたのは、11 節のみことばでした。「ですから、わたしを
あなたに引 き渡 したものに、もっと大 きい罪 があるのです」 -十 字 架 につけろと、ピラトに主 イエスを
引き渡したのは誰なのか。それは、私ではないか!
私たちは、流されやすい。罪 に、この世 に、そして、「十 字 架 につけろ」と心の奥 底で叫んでやまな
い自分自身に。私たちは、どうすれば、この罪の鎖から救い出されるのでしょうか。
それは、最初にお話した、あの言葉に帰 ってくるしかないのだと思います。
「エッケ・ホモ」=この人を見よ! この人を見よ!
フランシス・リドリー・ハヴァガルという素 晴 らしい讃 美 歌 作 者 がおられます。 2 彼 女 は牧 師 家 庭 に
生まれ、傍から見 れば敬 虔なクリスチャンでありました。しかし、心の中 になお主 に明け渡すことので
きない罪があることも知っていました。彼女はこういう言葉を残しています。 3
「私は旅路を歩みながら、高原のような所に到達するのを願っていた。岩あり、くぼみあり、断崖あり、
沼 地 ありというようなことの連 続 に、つまずきながら進 むのではなく、光 の中 を行 く ことができるような
高原である。
2
『栄 光 神 にあれ-讃 美 歌 物 語 』(梅 染 信 夫 著 、新 教 出 版 社 )p110
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しかし、私 は罪 によっていよいよ悪 くなっていき、以 前 の すべての困 難 の中 に戻 っていくように思
われる。自 分 の困 難 とそむきの大 きな根 は、今 、神 に対 して自 分 を余 すところなく明 け渡 すことをし
ないためだと思う。これがなされるまでは平安がないだろう。それはわかっている。」
ある時、フランシスは、ドイツの市 立 美 術 館 でスタンバーグという画 家 が描 いた一 枚 の絵 に釘 付 け
になりました。それは「エッケ・ホモ(この人 を見よ)」という題の絵でした。そこにあったのは、茨の冠を
かぶって十字架にかかったキリストの姿でした。その下には次のように書かれていました。
「我は汝のためにこの苦しみをなせり。汝 はわがために何をなしたるや」
その時の衝撃を歌ったのが、私たちがいつも聖餐式で賛美している讃美歌の 332 番です。
「主はいのちをあたえませり。主はちしおを流しませり。その死によりて我は生きぬ。我何をなして主
に報いし」
主がいのちを与 えてくださった。血 潮を流してくださった。ただ、十 字 架の主 を見 上げる。この人 を
見る。全てを与 えた末に、死 の他 何も報 いられなかった方を見る。かくも我がために栄 光を捨ててく
ださった主 を見る。自 分が十 字架につけてしまった方が、なお、私のために十 字架 で祈ってくださっ
ているその姿を見る。その時、私たちは初 めて本当の愛による自由を得るのです。
祈りましょう。
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『人 生 のかぎ』(V.レイモンド.エドマン著 、舟 喜 信 訳 、いのちのことば社)p126
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