言語運用の多面性

朝日大学一般教育紀要
3
5, 4
5−6
1, 2
0
0
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4
5
言語運用の多面性
田
口
知
弘
朝日大学、ドイツ語研究室
Die Vielseitigkeiten von Sprachanwendung
(Linguistik)
Tomohiro TAGUCHI
¨
Asahi Universitat
Zusammenfassung
¨
Die Sprache wird nicht nur als Mittel der Uberlieferung
sondern auch als friedliches
¨
¨ zum
und feindliches Mittel benutzt. Im taglichen
Leben spielt die Sprache als Schmierol
Zweck
der
Kommunikation
eine
groβe
Rolle.
Die
Umgangssprache
besitzt
eine
Resonanzkraft, die Menschen verbindet. Noch dazu erfasst die Sprache den Kern der
Staatspolitik und spielt bei den diplomatischen Verhandlungen von Staaten die Rolle als
Steuermann. Daher entfalten sich die internationalen Beziehungen in sanfter Weise.
Sprache
ist
weit :
vom
Level
der
Umgangssprache
bis
zum
hohen
Level
der
Diplomatensprache und sie ist je nach Sprachgebiet, Berufsart oder gesellschaftlicher
Schicht unterschiedlich.
Innerhalb des Voranschreitens von Internationalisierung und Globalisierung ist die
¨
Existenz der Muttersprache am wichtigsten. Gegenwartig
ist eine Herrschaft der groβen
Staaten entstanden, aber deswegen darf die Zauberkraft der Muttersprache und das
¨
¨
¨
Volkssolidaritatsgefuhl
einer gemeinsamen Sprache nicht erloschen.
Sprache und Macht stehen nebeneinander, aber die Sprache wird leicht durch den
Machthaber
benutzt.
Wegen
des
¨
stutzungsmittel
leichter benutzt.
nicht
gehorsam
sein,
sondern
Machterhalts
Das
der
Medium
Hauptpunkt
wird
soll
dem
muss
das
Medium
Establishment
auf
als
Unter-
¨
gegenuber
Wahrhaftigkeit“
”
und
4
6
言語運用の多面性
¨“
¨
¨
Objektivitat
von Information liegen. Darauf basierend konnen
die Burger
das
”
¨
¨
Urteilskriterium wahlen,
denn sie mussen
auf die Information dieses Mediums vertrauen.
¨
Die Information muss das Prinzip von Objektivitat
und intellektueller Aufrichtigkeit
haben.
Die Sprachmilieu reicht weit von den wirtschaftlich reichen bis zu den armen
¨
Gesellschaften und die Bereiche, um Sprache erlernen zu konnen,
sind verschiedenartig.
¨
Wenn man wirtschaftlich keinen Uberschuss
hat, kann man auch nicht andere Sprachen
¨
erlernen. Wenn man beim Erlernen anderer Sprachen nicht Toleranz gegenuber
dem
¨
¨
Land, den Wunsch nach kulturellem Respekt und Interesse hatte,
konnte
man die
¨
¨
¨
andere Sprache nicht erlernen. Alltaglich
entstehen auf dieser Erde haufig
militarische
¨
Machtkonflikte, durch den Dialog lost
sich dies auf friedliche Weise. Andererseits, mit
¨
¨
¨
der Sprache als feindliches Mittel, lasst
die Intervention den Konflikt gefuhlsmaβig
¨
¨
eskalieren, und die Gegensatze
verscharfen
sich. Bei Sprache gibt es Vorderseite und
¨
Ruckseite.
Daher ist abschreckende Pflicht wichtig, damit Sprache sich nicht auf
¨
aggressive Art und Weise benutzen lasst.
要
旨
言語は伝達手段としてだけでなく、平和的、敵対的手段にも利用される。日々の生活の中で、
言語は潤滑油としてコミュニケーション手段の大きな役割を担っている。日常言語は人と人を
結び付ける共鳴力を持っている。さらに言語は国家政策の根幹を握り、国の外交交渉手段とし
て舵取り的な役割を果たしている。それによって国際関係がスムーズに展開している。言語は
日常レベルから高レベルの外交言語まで幅広く、言語領域、職種、社会層によって異なってい
る。
国際化とグローバル化が進む中で母語の存在は最も重要である。現在、大国言語支配になっ
ているが故に、母語の魔力と同一言語の民族連帯感は消し去ることはできない。
言語は権力と隣合わせで、言語は権力によって利用されやすい。メディアは権力維持のため
サポート手段に利用されやすいのである。メディアは体制に従順ではなく、報道の<真実性>
と<客観性>に主点を置くべきである。それに基づいて市民は判断基準を決めることができる。
なぜならそのメディア情報を信頼しなければならないからである。報道は客観報道原則と知的
誠実さがなければならない。
言語環境は経済的に豊かな社会から貧困社会まで幅広く、言語習得できる範囲が異なってい
る。経済的余裕がなければ他言語を学ぶこともできない。他言語を学ぶことはその国への寛容
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さ、文化的尊敬の念と関心がなければ他言語を習得しないであろう。
この地球上で日々武力紛争が頻繁に起こり、対話によって平和的方法で解決している。他方
で、敵対的手段として、言葉による介入が感情的に紛争をエスカレートさせ、対立を激化させ
ている。言語は表と裏がある。そこで言語が言語を攻撃的手段として利用されないよう抑止す
る役目が必要である。
Positiv な言語と Negativ な言語
言語伝達手段は利用方法が多様で、人間生活の営みの原点である。コミュニケーション手段
とともに、言語は文化的伝統を継承する大切な記憶や記録を次世代に伝える文字言語手段
(Mittel der Schriftsprache)として重要な役割を担っている。人間が築いた知的財産(geistes
Eigentum)を次世代に伝える学術発展の利用手段である。文字表記、パソコンによるデジタ
ル記録によって事実を識別する最低限の事実確認資料になる。口頭による事実確認は時間とと
もに忘却の一途をたどる。記憶に留めないと人間の記憶は極めて曖昧だからである。
さらにパソコンによるデジタル化登録によってコンテンツ自体を記録に留めデータベイス化
し、より便利にデータが再現でき、私たちの生活からパソコンなしの生活は不便さを感じるよ
うになった。記録に留めることをパソコンが代用し、便利さはかつてない速さで整備され、記
録媒体としてハードディスクが日常生活を大きく変えている。これらはポジティブな言語利用
である。
一方パソコンによる便利さの裏で、ブログによる誹謗中傷などネガティブな言語手段によっ
て多くの人々が日常生活に不愉快な生活を強いられている。プライバシー侵害やその違法性に
対して直接訴えることのできない二次利用サイトなど便利さの陰で人権侵害に相当するサイト
が多々ある。ネット上に噂話が流布し、
[○月○日に地震が起こる]など、専門家でもない者
が予言者のごとくデマをネット上にブログで流す。日常生活を不安に陥れるデマ情報が氾濫し
ている。何が真実で何がデマであるかを見抜き、言語と格闘しなければならない。言葉の真実
(Wahrheit)と虚実(Falschmeldung)の情報闘争である。ポジティブな言語利用の裏には
ネガティブな言語がある。
逆に話の内容が事実であっても、黙ってそのままにしておくことの方が、本人のためによい
ことが世の中には多々ある。日常生活の中で、直接に知らない方がよかったと思うことである。
本人が直接知るのではなく、間接的に知って欲しい事実関係である。
ドイツでは子どものい
ない家庭が数多くある。難民をはじめ、養育に困っている子どもを養子縁組によって、自分の
子どもとして認定するケースが度々ある。養子縁組によって授かったその子どもが、ずっと自
分はこの親の実子であると思い続けてきたのに、第三者から自分の親が里親で血が繋がってい
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ないことことを知り、以後、人間関係が悪くなってしまった例。
直接に受け、精神的に滅入ってしまう例。
癌患者が癌告知を医師から
臓器移植をしないと命がない、と医師から直接聞
き精神的衝撃を受けた例などである。そこで周囲が本人に知られないように間接的な話し方を
することがある。「私たちがこれほど間接的な話し方を多用する究極的な理由は、情報の持つ
別の危険性にあるのかもしれない。情報の過多に翻弄されるのではなく、その内容に悪影響を
受けるという危険である。これが<合理的無知のパラドックス>といわれるものだ。すなわち、
たとえ自分がほしいと思うだけの情報を得ることができ、常に価値のある情報とそうでないも
のとを選別できたとしても、合理的な心にとって受け取りたくない情報が一定程度含まれてし
まうというのである。人は何かを知ることで動揺し、感情に制御不能な影響が及ぶおそれのあ
るとき、あえて知ろうとしないことがある。−−−合理的な心の仕組みがあえて無知を選ぶ理
由は、もう一つある。その仕組みが先入観のない公平な判断を下すように設計されている場合、
わずかでも余分な情報が入ると判断がどちらかに傾くおそれがあるため、先入観につながる情
報を除去しようとするのだ」と、情報不足で判断できないのも困るが、情報過多で不必要な情
報が多いと識別に迷い、良識的判断ができなくなってしまう。事実情報であっても現実を修復
できず事実認識に悩まなければならない人たちなど、日常生活を混乱させる要因が多々ある。
情報に振り回され、判断を誤る危険性が現代社会ではより多くなっている。
このネガティブな言語利用が善良な市民を巻き込んだり、争い事や戦争加担をしてきたこと
は、これまでの歴史から実証されるところである。そのネガティブな言語の組織的国家的利用
例として、とくに戦前の愛国主義的発想(patriotische Denkrichtung)は自国中心政策を押し
進め、他国の政策をやたら非難する組織的宣伝活動(Propaganda)である。愛国主義的言動
は近隣諸国との軋轢(Reibung)を生む要因となってきた。さらに、民主主義が成熟していな
¨
い国家では国内の反体制勢力を国外に目を向けさせる手段として、体制批判(Kritik fur
Re-
gime)を避けるため、言語による世論操作(Manipulation der ¨
offentlichen Meinung)がな
されてきた。
「ドイツでは1
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0年代末から、ワイマール共和制に対して根本的疑問を投げかけ、
<民族共同体>の樹立、<支配民族>思想、民族の<生存圏>の確保、反ユダヤ主義などを掲
げるナチスが急速に台頭し、3
3年には政権を掌握した。単なる<国民国家>に依拠する<ナシ
ョナリズム>ではなく、<民族>という前近代的な共同体への回帰を標榜するナチスという
〔新しい保守政党〕が第一党になり得た。政治・経済的な背景としては、ヴェルサイユ体制に
対するルサンチマン(Ressentiment 恨み)
、世界大恐慌に起因する不況の深刻化、政治の不安
定などを挙げることができる。思想的にはこれまで見てきたような、第二帝政誕生に伴って生
まれてきた拡張型ナショナリズムの<大衆>への浸透」と言われているように、大衆を巻き込
Steven Pinker, The stuff of though, 2007,
(
『思考する言語(下)』、邦訳、幾島幸子、桜内篤子、NHK
ブックス,2
0
09,
P.
1
9
6.
1
9
7
仲正昌樹、
『日本とドイツ
二つの全体主義』
、光文社新書、200
6,
P.
190
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んだ過剰な愛国主義的言論とその宣伝活動に大衆が酔しれ、ごく普通のドイツ人が誤った国策
¨
に巻き込まれ、国のためなら何でもやる極限状況下で加害者(Tater)になっていった。極端
な政治活動とメディアによる扇動(Agitation)に洗脳された一例で、ネガティブな言論活動
の象徴的例である。
¨
¨
日常の庶民生活の中でも利害、損得が絡むネガティブな言語は人を威圧(Uberwaltigung)
したり不快感(Unannehmlichkeit)を生み出し、争い事のもとになる。そこで利害関係が絡
み感情が付随しているコミニケーションには信頼関係を傷つけない緩衝剤的な話術が必要とな
る。ネガティブな話や激論、怒りの感情は軋轢の要因になっている。言語の緩衝剤(Puffer)
としてのユーモア(Humor)
、ジョーク(Scherz)は感情抑制の一つの対話手段であり思慮可
能時間を与えてくれる緩衝剤である。
「ユーモアは心地よさを生む。ユーモアや笑いにはうつ
や不安を減らす効果があるので、話の中にユーモアがあるとリラックスした気分になる。また、
ユーモア刺激は覚醒をうながすこともわかっている。意識がはっきりして、眼もさめる。その
ため通常は眠くなるような話でも、眠くならない利点がある」と、対話の中のユーモア効果が
説かれている。ユーモアは場を盛り上げ、笑いを誘い、あるいは意見対立がある時、物事がス
ムーズにいかない時、ジョークやユーモアが対話を進める重要なきっかけになっている。欧米
社会では緊張や感情的な意見対立を取り除く役割を担ってきた。
「ただ日本では、だじゃれを
口にするのは、少なくとも公の場では、はしたないとする雰囲気があるようだ。逆にれっきと
した文学作品にもこの種のものが溢れているイギリスは、民衆的な笑いのレベルが根強く残っ
ているとも、あるいは見かけとはちがって<イギリス人は子どもである>とも言われるゆえん
である。
」と、イギリス人は対話の中に笑いを取り入れ、言語融和を取り計っていく話術に長
けている。日本人の場合、周囲を気にする日本的処世術が言動の中に入っていて、公の場では、
必要なことしか話さない対応をしてきたからであろう。
「日本人は、群れとともに高笑いする
ことを、大きな楽しみとしていた国民であり、あるいはむしろ、それあるがゆえに、人を笑う
という場を、もとは、はなはだしく制限していた。日本文化の一つに<恥の文化>と規定する
分析がある。それは<笑い>の内容とともにあげつらうべき性質のものである。−−−<笑
い>は、人間性の自然発露、自由を欲する心の表現でもある。しかし、野放しにとはいかない
のは<人間は社会的動物>だからであろう。そこに<笑い>を規制する社会の性質が反映して
くる」長年の日本の言語感覚は欧米流のユーモアやジョークで対処していく潤滑油的な手法を
講じる土壌が培われていない。
「ユーモアは自分の愚かさを他人の目にさらすアンダーステイ
トメント(understatement 控え目表現)が特徴だ。それは人を安堵させる、ほのぼのとした
<おかしみ>を喚起する。ユーモアとは人間の愚かしさや欠点を温かく見まもる、他者への思
上野行良、
『ユーモアの心理学』
、サイエンス社 200
3,
P.
157
谷本誠剛、
『英米人のメンタリティ』
、大修館書店、199
7,
P.
83.
84
北見俊夫、
『ことばの風土』
、三省堂選書、1
9
8
7,
P.
124
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0
いやりだと言い直すこともできる」と言われているように言葉を介して相手を安心させる役目
も果たしている。とくに欧米ではネガティブな言語を直接的衝撃から避ける知恵として根付い
ている。
属国主義的発想から多文化社会への発想
これまでの多言語多民族社会から、グローバル社会がもたらした英語化という一言語利用に
※
収斂していく言語の階層化を見てきた。
さらにインターネット利用が普遍語(Allgemein-
sprache)として英語を世界に普及した。「インターネットとはアメリカで発明された技術であ
る。最初は英語だけが流通し、英語のさらなる支配が謳われたり恐れられたりしたが、あれよ
あれよというまに世界中の言葉が流通するようになり、すでにそれから久しい。その中には、
今まで市民権をえていなかった言葉−−−国家によって人工的に抑圧されたり、周りの大きな
言葉によって自然に抑圧されたり、果ては、それまで文字をもたなかったゆえに地球から消え
かかっていた言葉などまで入ってきている。このようなインターネットの現状に多言語主義の
勝利を見る人もいる。だが、インターネットで流通する言葉が多様化しているという事実とは、
全く矛盾しない。英語と英語以外の言葉とでは異なったレベルで流通しているからである。
」
英語に集約化されていく言語社会から、一方でグローバル化による多言語・多文化に触れる機
会も多くなっている。
ここで多言語利用という視点で、人間が他言語を獲得(Spracherwerb)することによって、
生活領域を広げ多文化社会を見る一つの手段になっている。だが、外国語を学ぶことのできる
人たちと、外国語を学ぶ機会の少ない人たちの言語獲得差は大きい。言語獲得差は情報量の吸
収 と 経 済 的 格 差 に 相 関 し て い く 傾 向 に あ る 。 底 辺 社 会 層 ( die unterste Schicht der
Gesellschaft)の境遇にある人たちにとって他言語を学ぶ生活環境は厳しい。オーストラリア
への移住民の例であるが、
「〈越境人間〉たちは国境を越えてやって来たものの、階層の壁を越
える確率は低い。−−−階層を越えようとすれば、定住地での言語の習得が必須の条件となる。
オーストラリアの場合、英語の能力が階層移動には欠かせない。英語がどの程度できるかが、
周りの人たちとのつき合いの密度に影響を持つ。社会的な地位や経済的収入も、英語の力に左
右されがちだ。新しい生活を求めて海外に出たものの、言葉が不自由のために、当初の目的を
果たせないでいる人たちも少なくない。英語ができない分だけ、下向きにずり落ちていく場合
もある」と指摘されているように、移住者にとって英語が生きていくための手段になっている。
一方で、移住者たちが他言語を学ぶ日常生活姿勢にも問題を含んでいる。いくら言語環境に
野内良三、
『ジョーク・ユーモア・エスプリ大辞典』、国書刊行会、200
4,
P.8
※
朝日大学一般教育紀要、第2
8号、20
0
3,
田口知弘,[言語の階層化]
水村美苗、
『日本語が亡びるとき』
、筑摩書房、2
00
8,
P.
240
杉本良夫、
『オーストラリア』
、岩波新書、2
0
0
0,P.
202
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1
すぐれていても他言語を学習する意欲がなければ言語獲得はできない。生活条件を改善すると
いう経済的理由だけで移住してきた人たちと、その移住国に憧れやロマンを持って移住してき
た人たちとの意欲格差は大きい。その国に住みたい、その国でよい人間関係を築きたい、とい
う動機付けは言語獲得に欠かせない。さらに各人の持つ人間的度量(menschliche Groβherzigkeit)や寛容さ(Toleranz)が対人関係に大きく左右している。他言語学習はその国の文化的
¨
尊敬(kultureller Respekt)の念とその国への愛着(Anhanglichkeit)や関心(Interesse)が
なければその国の言語を習得しようという気にはなれない。
このグローバル世界にあって、全て外来文化と結び付く時代になってきた。どの国の人々も
多言語に影響されやすい時代環境にある。
「言語は人間生活と深く関わり合っている。私達は
言葉を使って何かを知らせたり、説得したりすると同時に、脅したり、誘惑したり、そしても
ちろん、ののしりもする。言語は私たちが現実をどうとらえるかを映し出すと同時に、自分を
他人にどう印象づけようとしているかや、自分と他人がどう結びついているのかを映し出す。
言語は人間の本性を知るための〈のぞき窓〉である」と言われるように、それぞれの人間の生
き様を見ることができる一つの世界である。ここに多様な言語運用の素晴らしさがあり、一言
語単独使用にだけ頼ることは一つの窓から世界を見る限定された世界である。多言語によって
多くの<のぞき窓(Guckfenster)
>を介して多様な世界を見ることができるのである。
どの国、どの社会にも絶対的な生き方などはない、生活環境が異なれば考え方も異なってく
る。自分が正しい行動をしていても相手はかえって恨んでいることもあり、多くの立場や多様
な社会を覗き見ることはそれぞれの人間にとって重要である。覗き見る手段が言語であり、言
語はその民族や考え方や生き方を知る唯一の方法である。自国語の言語感覚だけでなく他国の
価値観を理解する出発点になる。人間は自分が生活してきた価値観を常に自分の尺度として設
定しているからである。多くの人の中にはスローライフで生きていこうと考えている人もいれ
ば、一方でスピード社会を好み、経済的成果を上げなければならないと考えている人もいる。
そこで言語介在する際の言語運用方法が問われるのである。この運用方法が重要な鍵で、世
の中が実利的思考になればなるほど語学教育手段は口頭による意思疎通(オーラル・コミュニ
ケーション英語)が取り入れられ実用的側面が強調されていく傾向にある。この点については、
明治以来の英語教授法論争で、教養主義的教育か実践教育か、の方法論争が続いている。英語
教育方法論はその時代の政治経済政策や国際関係に大きく影響してきた。これまで一般的に、
日本人は<
会話をしないと語学が役立っていない、
英語は世界の共通語、
英語は経済的
利用価値が高い>という前提で英語教育が進められている。もちろん、英語はコミュニケーシ
ョンの道具としての媒介言語(Vermittlungssprache)として必要である。しかも、実利性だ
Steven Pinker, The stuff of thought, 2007,(『思考する言語(上)』,邦訳、幾島幸子、桜内篤子、NHK
ブックス,2
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0
9,
P.
1
2,
1
3)
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けを考えれば、オーラル中心語学にますます傾斜していくだろう。
「英語圏の圧倒的な軍事的、
経済的、政治的な力に加えて、近代を通じて<学問>とよばれてきたものに非西洋人が参加す
るようになり、それにつれ、<学問>とは本来<普遍語>で読み、<普遍語>で書くという
<学問>の本質が顕わになってきたからである。背後に世界の学者の合意があるわけでも英語
人の陰謀があるわけでもない。<学問>とは<普遍語>でなされてあたりまえだという<学
問>の本質そのものによって、英語と言う<普遍語>に必然的にじわじわと一極化されてきた
のである。近年、さまざまな<学問>が数式化されてきたことが、その動きにさらに拍車をか
けた。そこへ、インターネットという技術が生まれたのである。
」だれもが理解できる言語で
なければ、読んでもらえない。さらに英語以外の他言語では人は読まない。そういう点で英語
は普遍語ということになる。
「オーストラリアの大学で勉強するためにやって来た日本人学生
たちを数多く見てきて、プロフェッショナルの世界で議論交換するための用具としての英語を
使えるようにするためには、会話力の訓練もさることながら、書く力の修行がまず第一だ、と
私は考えている。複雑な考えを順序よく分かりやすく話せるようになるためにも、書き言葉と
しての英語が正確に構成できなければならない。書くという過程は話すという作業をゆっくり
やっているのと同じことだから、これを手早く進められるようになれば、話すことなど何でも
なくなる。さらにいえば、日本語力が英語力をつけるための必要条件である。−−−どの言語
であろうと言うべきことを言うには、命題や事例の関係をきちんと把握していて、順番を考え
ながら文章を組み立てていくという作業が欠かせないからだ。何をどのような構成でうまく説
明するかという能力の開発が、英語習得以前の問題としてある。それに外国語が分かれば分か
るほど、日本語の仕組みがはっきりしてくる。二言語間に相互作用が働くという面があると思
う。
」と杉本氏は述べている。
まずは母語で自分の考え方や主義主張を持っていないと、物事を能率優先的な考え方で大国
の主義主張を安易に受け入れてしまう<文化のなだれ現象的危険性>がある。戦後、日本はそ
ういう意味ではアメリカ文化の影響をそのまま受け、大量生産・大量消費文化そして実利主義
的文化に極端に傾斜していった国である。
<何のために英語を学んでいるのか>その利用法に目を向けなければならない。他言語を学
ぶ国の人々が語学教育によって属国主義的発想に転化してしまっては元も子もない。自国の文
化的良さ、自国の生き方そして価値観まで喪失してしまう要因になる。工業技術の差、経済的
格差そして白人に対する欧米コンプレックスが存在している限り、自分たちの文化を自負する
ことは難しく、他言語崇拝思考になる。
言語は国力や経済力に関係し、底流には弱肉強食的な言語感覚が働いている。アメリカはも
水村美苗、
『日本語が亡びるとき』
、筑摩書房、2
00
8,
P.
250
杉本良夫、
『オーストラリア』
、岩波新書、2
0
0
0,P.
20
3.
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3
ちろん、米ソ冷戦時代にはワルシャワ条約機構に加盟していた国々は、学校での外国語授業は
ロシア語が必須科目になっていた。
戦前の日本のアジア植民地政策も、中国や東南アジア諸国では日本語拡張教育が行われ、属
国主義的感覚で日本語教育が展開された。言語は文化侵略の一翼を担っていて、他国の母語を
弾圧しながら日本語拡大の言語帝国主義的な(Sprachimperialismus)言語拡張策がとられた。
さらに言語が実利的経済的手段だけに利用されれば他民族にとっては文化侵略としてネガティ
ブな言語手段になってしまう。
しかし言語が正当な主張や母語の補助的手段、あるいは媒介言語(Vermittlungssprache)
であれば、ポジティブな言語の役割を果たすであろう。一方で経済的効用があり利用しやすい
言語として実利的利用だけに収斂していけば、母語の消滅とマイノリティ※文化の消滅に歯止
めが掛からなくなっていくであろう。そこにはポジティブな言語観とネガティブな言語観が混
在している。
母語の重要性
母語には感情表現である一語一語に喜びや悲しみの魂(Seele)が含有している。自分の国、
自分の生活圏の中に生きる自分の言葉(eigene Sprache)
、母語は生きた血が流れている。そ
の点で外来語より母語で話すことの比重は大きいのである。グローバル化が進み人的交流
(Austausch von Menschen)が頻繁になり、海外生活が私たちにとって日常化している社会
にあって、母語の存在は大きい。感情表現である喜び悲しみを含む言魂(Sprachseele)は母
語でないと身を持って伝わらない場合が多い。
少数民族が政治や経済に関与できず自分たちの民族集団を持てない時、あるいは植民地化
(Kolonisierung)され他言語支配下に置かれた時には母語の存在が不明確な根無し草的存在
である。母語はアイデンティティを形成する唯一の民族象徴であり、アイデンティティのある
民族には母語があり、社会生活を維持していく意思疎通がうまく計れ、民族内の以心伝心的
(Wo Verstand ist, braucht nicht viel Worte)存在感が保持されている。東西ドイツ統合
もドイツ語という共通ドイツ語(Gemeines Deutsch)の存在があったからこそ、統合が可能
になったと言っても過言でない。異言語による民族的対立感情は大きな精神的な壁(geistliche
¨
Mauer)であり、言葉の信頼とメンタリティ(Mentalitat)は母語にすぐる言葉はない。
「ヴ
ァイスゲルバー(Weisgerber)は言語の本質の定義からはじめて、<言語生活の四つのレベ
ル>を区別する。すなわち<人間の言語能力としての言語、言語共同体の文化財産としての言
※
マイノリティー(minority)多民族国家の中で、相対的に数の少ない民族。それに対してマジョリティ
ー(majority)は多数民族。
5
4
言語運用の多面性
語、個人の言語所有としての言語、そして言語手段の使用形式としての言語>の諸レベルであ
る。この四つのレベルは最初のうちは同等のものとして扱われるが、ヴァイスゲルバーは、す
ぐに社会的レベル、つまり母国語(Muttersprache)としての言語を強く前面に押し出すよう
になる。これによってヴァイスゲルバーにとって決定的なことが行われたと言えよう。つまり
彼は言語を定義する手がかりを、経験的に見て言語がさまざまな形の用いられ方に求めず、言
語の本質、すなわち言語は母国語としてつねに《精神的形成力》であるという点に求めてい
る。
」ここに母語の究極的な存在価値を提示している。「自らの母語については、自分がなぜそ
れを話していて、またなぜ理解できるのかは、その理由を問わないほど当然のことであるから、
他者も自分のことばを理解すべきであって、それを理解しないものには、何か致命的な欠陥が
あるからだと考える。他者が自らの母語を理解しないのは不可解である。自らのことば以外に
まともなことばがあると思ってもみないからだ。じつは、母語とは最も意識にのぼりにくく、
発見しにくいものだ。ヴァイスゲルバーはこのことを、<母語の自明性、当然性(Selbstver¨
standlichkeit
der Muttersprache)
>と呼んでいる。
」、日常母語の存在は無意識の中にあって、
母語が存在しなくなった時、初めて母語の重要性に気付くのである。
アメリカ移住者の言語の歴史的ルーツを辿っていくと「言語戦争とは、自らの言葉を奪われ
たマイノリティー(minority)が貧困と差別の中で人間の尊厳を社会的、経済的にとり戻そう
として闘った歴史そのものである、と言うならば、黒人を頂点とする各マイノリティーの歴史
は言語戦争そのものだ、と言う事ができる。言語とはそれを用いる人にとって、文化と民族の
歴史の継続の表現であり、文化の否定は言語の否定そのものである。
」と言われているように、
アメリカ社会に同化(Assimilation)することはそれぞれの持つ民族母語を捨てて早く英語国
民になることであった。それは暗黙のうちにアメリカ社会に溶け込む手段であった。母語放棄
こそがアメリカ社会へ踏み入る第一歩になった。
「米国では第二次世界大戦前から、メキシコ
出身の移民は農業や鉄道工事などで、安価な労働力として貴重な存在だった。19
4
2年には戦時
の労働力不足を解除するため、米政府はメキシコ政府と、メキシコ人季節労働者を合法的に受
け入れる〈ブラセロ協定〉を結んだ。−−−当時の米国には合法・非合法を問わず、メキシコ
人労働力への需要があった。6
0年代半ばに同協定が終わっても不法移民は増加。70年代になる
と米国で社会問題化し、移民制度改革が繰り返されてきた。−−−米国に現在12
0
0万人いると
される不法移民は多くがメキシコなど中南米出身のヒスパニック(Hispanic)系。農業や建設
業などの底辺の《3K職場》で不法移民が労働力の受け皿になっている実態は今も昔も変わっ
ていない」各マイノリティー移住者はアメリカナイズしながら労働力手段として存続した。各
マイノリティーはだれもが安い労働力の対象にさせられ、アメリカ産業の調整装置(shock
Gerhart Helbig, Geschichte der neueren Sprachwissenschaft, VEB Bibliographisches Institut
Leipzig, 1970,(邦訳、岩崎、早川、千石、三城、川島、『近代言語学史』白水社,197
5,
P.
11
3)
田中克彦、
『ことばとは何か』
、ちくま新書、2
0
0
4,
P.
183
『言語』
,石井行広、
[アメリカの言語戦争]
,大修館書店、197
5.
11月号,P.
27
岐阜新聞、朝刊,2
0
0
9,
8,
2
4,
[不法移民]
田
口
知
弘
5
5
absorber)の役割を果たした。しかし、移民第一世代は真のアメリカ人になることはできなか
った。米国への移住者たちの過去の姿は「公民権(civil rights)を与えられず、英語も話せな
いまま帰化不能の外国人として疎外された移民一世、その親の姿を見て親を捨て、言語と文化
を捨てて完全なアメリカ人になり切ろうとした二世、二世の親の生き方にさらに磨きをかけよ
うとした三世、そしてアメリカ人ではあるが、固有の文化の中に自らのアイデンティティを求
めようとする三世の一部と四世の時代になって、言語と文化は再び息を吹き返そうとしている
点である。
」まさにアメリカ社会は他文化の価値を認めようとしない WASP※を中心とするア
ングロサクソン社会であった。このアメリカ文化圏への同化を求めたアメリカという移民国自
体が後続移民に対して差別(Rassendiskriminierung)と偏見(Vorurteil)を容認した歴史で
あった。移民一世にとって母語、慣習、宗教など、これまでの母国の生活形態を一日も早く捨
て去ることが、自分たちの存在をアメリカ社会に組み入れる生き方になった。そこには自分た
ちのアイデンティティもなければ固有の文化を持てない人々の存在であった。
EU 諸国では他国からの移住者(Einwanderer)がますます多くなっている。本来は EU へ
の同化政策によって、各自の自国文化を継承していくことが、この EU 地域に従来から住んで
¨
¨
いる人たちにとって一つの願望であった。しかし、外国人在住者(auslandischer
Ansassige)
が 多 く を 占 め る ド イ ツ な ど で は 多 文 化 受 容 社 会(multikulturellen
Zusammenleben−
Gesellschaft)に移行していかざるを得ない現実に直面していった。言語政策(Sprachpolitik)
も多言語政策に対応せざるを得なかったのである。
「1
9
9
0年には、パリにおいて、欧州安全保
障協力機構(Organisation for Security and Co‐operation in Europe, OSCE)が採択した
<新しいヨーロッパのための憲章(the Charter for a New Europe)
>の中に、言語政策保
護に関しての記述が存在している。そこでは、加盟国家内に居住している少数民族の民族的ア
イデンティティ、文化的アイデンティティ、宗教的アイデンティティ、言語的アイデンティテ
ィも保護されるべき」と述べている。この基本的な考え方は移住国での同化主義政策(assimilationspolitik)よりも多言語主義政策(Prinzip der Vielsprachigkeit)の推進を明確化した憲
章であった。
<なぜ先住民が使用していた母語が大切にされなければならないか>は、以下のハワイ語の
一例からも垣間見ることができる。
「Kanahele(1
9
8
2)が唱えている方向性で、すなわち、エ
スニシティ(ethnicity 民族固有の性質・特徴)にとらわれないハワイ先住民族文化の継承こ
そ、活路が見いだされるのではないだろうか。この方向性は、先住民族の歴史、伝統、生活様
式などを無視するものではない。むしろ、ハワイの地に根差した文化に誇りを持たせることに
よって、他の文化に対する敬意を子どもたちに植えつけようとするものである。ハワイ先住民
『言語』
、石井広行、
〔アメリカの言語戦争〕
、大修館書店、197
5,1
1月号、P.
27.
28
※
WASP(White Anglo−Saxon Protestant)白人で米国社会の支配層と見なされてきた。アングロサク
ソン系で宗教はプロテスタントである人々を言う。旧態依然とした保守的米国人とも言われている。
河原俊昭、
『世界言語政策』
、くろしお出版、2
00
2,
P.
192
言語運用の多面性
5
6
族の血を引いていようがいまいが、文化的、心理的、精神的に共鳴できるものがあれば、共に
歩もうではないかという姿勢である。具体的には、物質万能主義、消費至上主義、能率優先主
義に対するアンチテーゼとして、先住民族の生き方をとらえ直そうと提案している。
」同じ英
語圏の中に生活している間に、先住民たちはアメリカナイズ(Amerikanisierung)され能率
¨
優先(Vorzug der Leistungsfahigkeit)に物事を考える生活様式に移行し、アメリカ文化に
同化することが自分たちの進歩発展と考えていた。
「アメリカ合衆国インディアン問題連邦委
員会は、1
8
6
8年にインディアンの言語廃絶のための早急な処置を求める報告書を発表した。
<言語が同一であれば、感情、思考も同一になる>。したがってインディアンの<野蛮な方言
を一掃し、英語に置き換えるべきである>。報告書は言語の威力を暗に認めたことになる。た
だしその一方で、何十という先住民の言語の存在は認めそこなった。実際のところ、インディ
アンは民族の尊厳に関わる自らの言語を話す権利さえ剥奪されていた。委員にとって、インデ
ィアンのことばは方言、それとも野蛮な方言にすぎなかった。ほかのアメリカ人と同じことば
を話すようになれば、インディアンも同じように感じ、同じように考えるようになる」と、こ
の報告書は先住民族語に対して言語の一元化推進を提示していた。以後、この流れが社会通念
として引き継がれ、現在に至っている。しかもアメリカ社会に同化する生き方は先住民にとっ
て文化的劣等感を払拭する一つの手段であると、多くの先住民が錯覚していた。これまでの生
き方が真に人間的な生き方であったかどうか、祖先の歴史や文化を再考することにより、祖先
が使用してきた言語価値を見直し、その民族語(ethnische
Sprache)の発想から先住民族の
生活の源流を求めていった。
とくに英語化によって、経済効率主義や消費至上主義的な発想が強く、旧来の土着の文化を
卑下した考えが常に働き、先住民が持っていた固有の言語や文化を切り捨てることがアングロ
サクソン(Anglo−Saxon)的な国家忠誠につながってきた。「アメリカは一般的にメルティン
グ・ポット(melting pot 多様な人種の堝)の国と呼ばれている。様々な人種がその中に入り、
混然として一体をなす国、そこには共通の利益追及と、それを可能にする一つの手段としての
言語がある。英語は WASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント−−−白人で
アングロ・サクソン系で宗教はプロテスタントである人々を言う)と呼ばれる。先着アングロ
・サクソンによって公用語として使われてきた。この国での言語の位置は詰まるところ、<ア
メリカと言う国はアングロ・サクソンが作った国だから、後からやって来た連中は、この国で
生きていく以上、当然英語を話さなければならない>と言う論理に帰着する。
」と言われるよ
うに、移民としてやって来た人々はこの論理に従って自分たちの母語を放棄して英語文化圏に
同化していくことが唯一 WASP に近づく近道であった。アメリカにはアングロサクソン的生
Ibid, P.
2
9
Mark Abley, Spoken Here, Westwood Creative Artists Ltd. 2003,
(『消えゆくことばの地を訪ねて』、
邦訳、木下哲夫、白水社、2
0
0
6,
P.
3
8
8.
3
8
9)
『言語』
,石井行広、
[アメリカの言語戦争]
,大修館書店,197
5,
11月号,P.
27
田
口
知
弘
5
7
き方が社会の底流に流れ、根付いている。それぞれのマイノリティーの人々の生活には<競争
に勝ち抜く発想>が建国以来のアメリカ精神になっている。そういう意味で母語はマイノリテ
ィーの生活を問い直す原点になった。これまでアメリカ社会の底流を流れてきたアングロサク
ソン流の生き方がアメリカ社会の主流になり、常に能率優先の弱肉強食的社会となった。競争
社会の中にあってマイノリティーの人々や先住民は二流・三流市民として下げすまれ、文化的
にも劣った人種に入っていた。移住者にとって、アメリカでは自分の母語を放棄し、アメリカ
に同化し、自分たちのアイデンティティを放棄することが最も早くアングロサクソン的アメリ
カ人になる近道であった。「消費万能の時代が到来する以前には少数言語がこれほどあからさ
まに危機に瀕したことはなかった。1
9世紀にはヨーロッパの大半が国家間、文化間の差異を讃
美するロマン主義のうねりに身をゆだねた」言語の各国間の言語的差異は文化的創造性の差異
でもあった。しかし、言語の同質化・一元化は各国文化の創造性をなくし、文化的均一状況を
生み出し、消費物資の同一化とともに、言語の一元化が進んでいった。先住民や移住者たちの
母語消滅は自身の文化消滅そのものであった。
メディアによる操作
新聞社は会社として新聞が売れなければ経営が成り立たない。ついつい新聞購読者を増やす
ために、新聞の正義感(Gerechtigkeit)や新聞による主義主張原則(Prinzip einer Behauptung
von Prinzipien)を明確にせずに一般大衆に迎合してしまう新聞社の姿勢があった。メディア
は時の権力の制約を受ける中で真実を世人に伝えていく使命があったにもかかわらず、戦前の
新聞の状況を見ると、「商業新聞として発展するためには、一党一派の政治的立場に立つこと
で読者層を狭めてしまうような編集方針を改めると同時に、事実を客観的に伝えることが部数
拡大の課題となった。それが日本の軍国主義化とともに次第に愛国的な調子を高め、戦時報道
では米英を鬼畜呼ばわりし、国民の戦意をあおる主観報道・虚偽報道が横行した。その歴史的
過ちを二度と繰り返すまいとして掲げられたのが、第二次大戦後の客観報道原則である。
」戦
¨
時の新聞各社は自社の存続のために客観的報道原則(Prinzip von Presse-Objektivitat)を自
粛してしまい、結果的に戦争加担に走ってしまった。新聞内容の真実と虚偽の分別ができなく
なれば新聞報道の使命は終わりである。
しかし、いくら新聞が立派な論調(Argumentationsweise)をしても新聞社の財政基盤が確
立しなければ、新聞の良心に反して権力(Macht)や大衆(Masse)に迎合し売れる新聞報道
に傾いてしまうのである。「精神的活動を業とするジャーナリストに精神的な自由と自律がな
Ibid, P.
3
8
7
原寿雄、
『ジャーナリズムの思想』
,岩波新書,199
7,
P.
146
言語運用の多面性
5
8
ければ、ジャーナリズムの自由は実現できないはずである。また放置すれば資本の法則が貫徹
して営業主義にはしりやすい商業ジャーナリズムの内部で、公共性を担保する役割が個々のジ
ャーナリストに当てられるべきだという主張も成り立つように思う」報道の公共性と発言の自
由保証がないと真の状況が伝わらず良質な新聞にならない。
世論の流れとして、誰も自分の国や民族を誇らない者はいないし、メディアが自分たちの民
族の優れていることを流せば世論は喜ぶであろうし、悪い気はしないであろう。文章内容、書
き方、やり方によってはどうにでも言語操作(Sprachmanipulation)ができるのである。
「<愛
国>は冷静な判断を失わせる。ジャーナリストは<愛国>の誘惑にまけてはならないのに、
<国益>が目を狂わせる。これには、ナショナリズムがメディアにとって商売上の得策になる
点も見逃せない。逆に言えば、愛国熱が高まろうとしているときに、それに水をかけるような
メディアは読者、視聴者から嫌われやすい」と、国民は国益とか愛国的な言葉には弱いのであ
る。世論の流れに逆らって、正論を主張することはメディアにとって正義観と勇気がいる。そ
の片寄った報道を避けるために、
「ドイツのように一つの局の中だけでなく、全ての放送局を
総合して、多様な社会層の意見が反映されているかどうかを判断すればよいという考え方もあ
る。欧州では多様性の確保をメディア政策の柱としてきた国が多く、メディアの自由競争を放
置すれば、言論の独占化が進んで多様性が確保できなくなり、弱小紙を税金で補助するスウェ
ーデンのような制度まで生まれている。ドイツの場合もそういう思想が背景にある」、従って
言論には知的誠実さ(intellektuelle Aufrichtigkeit)がないと都合よく政治利用され体制や権
力に加担してしまう恐さがある。
よく広報で国民に新聞・テレビを介して政策アピールしている。広報アピールが多ければ多
いほど浸透効果があり、資金力にまかせて広報活動を介して、政策の正当化を伝えている。と
くに政治政策は裏付けを持った言葉でなければならないが、強調した広報言語だけが一方通行
的に強調表現に走ってしまう危険性を孕んでいる。そこで<どんな姿勢で何を伝えるか>が重
要になってくる。しかも言語は正の部分を強調することで負の部分を打ち消し、政治的弱点を
被い隠すカモフラージュ手段(Tarnungsmittel)にも成り得るからである。
センセーショナルな話題(Sensationsmeldung)はメディアによる言語操作(Sprachmanipulation)でどうにでも利用でき、現実と報道のギャップ(Spalte)が大きくなることが度々あ
る。言葉だけを聞いて、あるいは文章報道だけを読んで内容を識別する感覚は一般的には難し
い。とくに政治の場合、その実践活動と、その内容把握する眼力(Kennerblick)が必要であ
る。しかし、放送、新聞、雑誌などメディアを介さないと一般の人々には情報が伝わらない。
言葉は説得力、論理性が大きく左右するが、何よりも<真実性>が問われなければならない。
Ibid, P.
8
7
Ibid, P.
1
3
7
Ibid, P.
1
1
6
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弘
5
9
例えば、選挙戦では選挙演説が上手か下手かによって選挙結果に影響している。またメディ
アの使命として、
「今日の日本の役所、学校、会社、地域、労働組合、政党を問わず、どれだ
け言論の自由があると言えるのか、おしゃべりの自由はあっても、体制への根源的な批判、多
数派の価値観に突き刺さるような異端の言論、表現の自由は保障されていないのが実態ではな
いか。多数派の言論はわざわざ保障される必要がない。言論表現の自由とは常に、少数派の異
端の自由を保障すること、多数が憎む思想の保障でなければならない。
」と言われているよう
に多数が少数を支配し、少数意見が多数意見によって押し潰され、多数意見が正当化(Rechtfertigkeit)されれば、非なる事、不条理なることも少数が多数に従わなければならない。メ
ディアは世論に迎合して少数意見を抹殺しないようにしなければならない。
言語環境
ヘッセの『デミアン』の中に、二つの異なった世界が描写されている。信仰の世界と日常世
界の両極端社会である。まさにこの社会環境が言語の質を区分している。
「この世界には、な
ごやかな輝き、あきらかさ、そして清らかさが所属していた。ここには、おだやかな、やさし
い言葉、洗いきよめた手、清潔な衣服、よき風習が、住みついていた。ここでは朝の賛美歌が
うたわれ、ここでは、クリスマスが祝われた。この世界には、未来に通じる。まっすぐな線と
道があった。義務と罪過、やましい良心とざんげ、ゆるしと立派な決心、愛情と嵩敬、聖書の
言葉と英知があった。生活があきらかで、清らかで、美しくて、ととのっているためには、み
んなこの世界に味方しなければならなかったのである。ところが、もう一つの世界はすでにぼ
くら自身の家の真ん中ではじまっていた。そしてまったく様子もちがえば、においもちがうし、
言葉もちがうし、別のことを約束したり、要求したりした。この第二の世界には女中や丁稚が
いたし、怪談や醜聞があった。そこには途方もない、心をそそるようなおそろしい謎めいた事
物の、雑然とした流れがあり、屠殺場だの、刑務所だの、酔っぱらいだの、がなりたてる女た
ちだの、−−−強盗や殺人や自殺などの話があった」と非常に静寂で厳粛な場所と日常の雑然
とした二つの世界をヘッセは小説の中で描写している。現実から離れた教会と日常社会の対比
である。
ここで使用される二つの世界の言語的相違に視点を当てると、多くの人々は社会的関係、職
場、地域など利害に縛られた中で生活している。そこから発せられる言葉の数々は〔理性的な
言葉〕よりも〔怒りの感情が多い言葉〕である。社会生活が安泰であれば怒りの言葉は少なく
なり理性的な言葉が多くなる。しかし、生活に密着した感情の伴った生きた言葉は人間生活の
Ibid, P.
8
5
Hermann Hesse, DEMIAN, 1919,(邦訳、実吉、『デミアン』、岩波文庫、200
9,
P.
12
言語運用の多面性
6
0
本音(wahres Wort)が含有している。
言葉は大衆性と庶民感覚のある感情表現によって、生身の現実的言語感覚を生み出している。
人間が現実からとき離されて、経済的な拘束力もなく自由の身であれば、とくに職業上の地位
や立場に関係がなく、上下関係もなく生活すれば、組織の中の決まり切った敬語の存在は平準
化され、全てが友達感覚の仲間内言語に近づくだろう。現実から掛け離れた場所に生活すれば、
その場に合わせた語り口になり、言葉は現実から遊離していく。人間の生き方や価値観が人に
よって様々であるように、集団や個人の言語環境は異なっている。公的な話と私的な内輪話と
では、一つ一つの言葉の持つ背景が異なり、それぞれの言語使用感覚も相違してくる。
言語には通常の一般社会からかけ離れた縁起を担いだタブー言語がある。縁起(Omen)を
担いだ呪術的言語で運・不運を想起する迷信と思われる非科学的な言葉である。冠婚葬祭だけ
に使用する言葉、現代社会にあって因果関係が明確であっても、科学的に考えることができず
¨
に縁起やジンクス(jinx, Unglucksrabe)を担ぐ言葉である。生活の中で、運不運に起因する
言葉がその一例である。
「<縁起>とは、もともと仏教語の<因縁生起>の省略で、人の吉凶
はもちろんのこと、一切の現象には、神秘的な因果関係が作用しているという意味である。
−−−よい<縁起>を持つ寺社にお参りすれば、願いがかなえられ易いと考えるから、<縁起
がいい>という使い方もされる。さらに転じて、<物事の前兆>とか<さいさき>の意味とも
なった。人はだれでも吉を願い、凶を遠ざけようとするから、凶の兆を連想させるようなこと
い
ばを<忌みことば>として避け、いい替えて吉にすり替えようとする。いい替えた方を<縁起
ことば>という。
」として言葉の使用場所や背景を考慮に入れて日本語の場合には対話しなけ
ればならない。現実にタブー言語(Tabu−Sprache)が存在している。使用方法によっては
喜びを不安にも変えてしまう。人間は平穏無事を祈る生活上の願いを持って生活している点を
¨
考慮しなければならない。縁起の良い数字(Gluckzahl)などは、どの国にもあり中国の〔8〕
、
英語圏の〔7〕
、逆に嫌われている日本の病院の部屋番号〔4〕などその一例である。
ドイツ語の場合には同じ意味であっても、人間と動物を明確に区別している点である。子ど
もに対しては人格がまだ確立していないと見なして大人として取り扱っかわない前提で言語使
用している。同じ<食べる>でも人間であれば<essen>、動物であれば<fressen>、さらに
人を呼ぶのに<O hallo!>と、犬猫、動物、子どもに対して<Pst!>と言って人格のある大
人と人格のない子どもや動物と区分使用している。対話の中で真実性がなく取り留めのない話
に対して<話にならないよ、Quatsch!>など使用されるが、場をわきまえないと品位のない
言葉に解されてしまう。結婚式などの挨拶言葉は日本と同じように禁句(Tabu)がある。<壊
れる,brechen>、<das Herz brechen,女性を泣かす>、<die Ehe brechen,不貞を働
北見俊夫、
『ことばの風土』
、三省堂選書、1
9
8
7,P.
19
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口
知
弘
6
1
¨
く>などは祝い言葉(Gluckwunsch)の中では不使用言語であり、場を心得えて使用しなけれ
ばならない。さらに日本語はドイツ語以上に縁起を担いだ言葉があり、場所・状況によってタ
ブー語彙がある。日本語には同音異義語〔アタル、カエル、サル、マケル、ハシ〕などが多く、
いい意味にも縁起のよくない意味にも解され、音韻組織上、他の言葉を連想想起させる要素が
強く働いている。
(2
0
0
9年9月2
4日受理)