電磁波と如来の光明の世界 島根県立大学短期大学部教授 江角弘道 如来光明礼拝儀の中にある「光明摂取の文」には、 「如来の光明は、遍く十方 の世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨て給わず。」とあります。自然界中 の電磁波の振る舞いが、如来の光明が照り輝いている様子と相似であることを 述べてみたいと思います。 現在は、高度に発展した科学文明が生活の中に深く入り込んでいます。最近 は、ほとんどの人が携帯電話を持つようになってきました。この携帯電話は、 電磁波が届く範囲内であればどこからでも話ができます。これは、ある人が友 人に携帯電話をかければ、空間を電磁波が飛び回って、離れた場所にいるその 友人の携帯電話に電磁波が届き、会話ができるためです。この携帯電話は、物 理学の中で明らかにされた電磁場に関する現象を応用したものです。電磁波は エネルギーを持った波です。それは、空間を伝搬していきます。電磁波が伝搬 している空間を電磁場といいます。マックスウェルは、1864年に電磁場に 関する方程式を解き、電磁波が空間を伝搬することを予言しました。それから 20数年たち、1888年、23歳の青年ヘルツがこれを実証しました。物理 学は、この電磁波という実在を見いだした後、大きく発展していきました。電 磁波は目で見ることが出来ませんが、空間を飛び回っています。 大学で電磁気学を何十年も講義していますが、最近はこの電磁波の説明に金 子みすずの童謡詩「星とたんぽぽ」を使うことにしています。 星とタンポポ(金子みすず作詞) 青いお空の底深く 海の小石のそのように 夜が来るまで沈んでる 昼のお星は目に見えぬ みえぬけれども、あるんだよ みえぬものでも あるんだよ 散ってすがれたタンポポの 川原の隙に、だぁまって 春の来るまで、かくれてる 強いその根は目に見えぬ みえぬけれども、あるんだよ みえぬものでも あるんだよ つまり、電磁波は見えないけれども、存在するわけです。どのように存在し ているかと言いますと、空間全体に広がって分布しています。電磁波が届く範 囲内であれば、どこにいても電磁波検知機(今の場合は、携帯電話です。)さえ あれば、感知できます。だから空間のある部分では、別の人の音声が聞こえる のではなく、発信者の音声は、空間のどの部分にいても同じに聞こえます。 ここで、読者の皆さんに電磁波が空間を伝搬して携帯電話機まで届いている ことを体験していただく簡単な実験を提案します。それは、お持ちの携帯電話 を、料理などで使うアルミホイルで包んで下さい。そしてその携帯電話に向け て他の電話機から電話をしてみて下さい。 「おかけになった電話は、電波の届か ないところにあるか、電源が入っていません。」とアナウンスされて電話はかか りません。今度は、アルミホイルを外してかけてみてください。すぐにかかる はずです。これは、アルミホイルは電気を通す導体なので、電磁波のエネルギ ーがそこで吸収されてしまうため、携帯電話機に届かなくなったのです。 「如来の光明は、遍く十方の世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨て給 わず。」と如来光明礼拝儀の中にあります。今述べた電磁波が、この如来の光明 の働きと良く対応しています。電磁波は、目に見えないが、この空間全体に広 がっています。それは、如来は目に見えないが、如来の光明が、遍く十方の世 界を照らしていることと対応します。携帯電話は、電磁波を受け取る検知器で すが、それがアルミホイルで覆われていたら、感知できません。これは、携帯 電話に相当するものは、私達衆生が仏性を持っているということであるわけで す。如来の光明を受け取るのは、私達衆生ですが、それが自我という壁で自分 自身を覆っていたら、如来の光明は届かないことに対応しています。つまりア ルミホイルで包むことが、自我という壁で自分自身の中の仏性を覆うことに対 応します。どうしたら如来の光明を頂くことができるかと言いますと、 「念仏の 衆生を摂取して捨て給わず。」とあります。つまり、如来は、念仏の衆生のとこ ろにその光明を届けて下さるのです。仏教では無我ということを言います。無 我にて念仏をするとき、本当に如来の声が聞こえてくることになります。実は 聞こえてくるだけでなく、見えてきます。そして、大きな喜びが体中に湧き出 してくるのです。それは、携帯電話で友人と話ができるということは、普通は なんとも思っていませんが、よく考えれば、便利なことですし、有り難いこと であるということに対応しています。この頃の若者は、携帯電話がないと生活 ができないとまで携帯に頼っています。 携帯電話の場合は、音声を電磁波に載せるものです。最近は、携帯テレビ電 話が普及し始めています。それは、音声と画像を同時に電磁波に載せるもので す。だから、携帯テレビ電話を持っているもの同士の会話を考えると、2人の 話しと画像が、この広大な空間を電磁波として行き交っていることになります。 そのような電磁場がこの空間に存在することになります。電磁場は、目に見え ません。もちろん、触れることも、嗅ぐこともできません。でも、確かに存在 することを、私達は“知識として”知っています。携帯電話もテレビも知らな い未開人は、空中を飛び回っている電磁波の存在は、信じることがないでしょ う。それと同じく、如来の光明は、念仏をしない人には、感応できませんが、 念仏する衆生には、確かに感応できるのです。 次に、重要なことは、「携帯テレビ電話の音声と画像」は、「電磁場」と1対 1に対応していることです。つまり、電磁場がなければ、携帯テレビ電話の音 声は聞こえなく、画像も映りません。これは、如来の光明の世界がないならば、 この世の念仏の衆生もいないことになります。つまり、如来の光明の世界とこ の世の念仏の衆生とは、1対1に対応しているのです。では、その携帯テレビ 電話の音声と画像は、広大な空間に分布する電磁場のどこの部分に相当するで しょうか。それらは、もちろん携帯テレビ電話の中では、音声と画像として厳 然と区別できます。指差すこともできれば、言葉で表現することもできます。 ところが、それらの画像や音声を形作っているおおもとの空間にある電磁場に おいては、それらが特定の場所に相当するというわけではありません。空間に ある電磁場の中に、渾然一体となって「たたみ込まれ」ているのです。これと 同じように、この世では、念仏の衆生も存在するし、念仏と無縁な衆生もいま す。生老病死もあれば、喜怒哀楽もあります。山や川も海や水や太陽や月など は、私の外側に存在する物体です。ところが、如来の光明の世界においては、 これらすべてが渾然一体となって「たたみ込まれ」ているのです。つまり、私 はあなたであり、山であり、川であり、花であり、太陽であり、銀河系の星や 大星雲でもあります。そして生老病死も無ければ、喜怒哀楽もありません。観 察した対象と一体感を感じるというのは、如来の光明の世界の感覚であるわけ です。さらに言葉を変えていえば、それは空の世界とも言えます。般若心経に は、空の中には、 「色無く、受想行識無く、眼耳鼻舌身無く、色声香味触法無く、 限界乃至意識界無く、無明や無明が尽きること無く、老死や老死が尽きること 無く、苦集滅道無く、智無く、得ることなし」とあります。 では、なぜ電磁場と如来の光明の世界(空の世界)が相似であるでしょうか。 このことに関して、弁栄聖者は、次のように述べられています(光明の生活、 118 頁)。 「自然界と云いまた心霊界と云い宇宙に本来二面あるにあらず。宇宙は本然と して法爾なり。たゞ宇宙に対する衆生が二面に観ず。人が天則秩序に随って生 得上感覚するものは自然界なり。天に日月星辰ありて懸り地に動植物あって生 活す。此の自然界を以て宇宙は之に尽したるものと思惟せり。 相対に見ゆべき自然現象界を超えて、観念界の円融無碍自在の方面を心霊界 とす。大円鏡智は絶対観念なれば自然現象の客観と雖もそれと離れたるものに あらず。されど衆生が肉眼即ち感覚の方面より観るを自然界と名づけ、観念的 に直観するを心霊界となす。 」 本然として宇宙にある法は、一つのものであるため、それが自然界(今の場 合は、電磁波です。)に現れようと心霊界(如来の光明の世界です。)に現れよ うと、その現象の仕方は、当然に似てくることが考えられます。
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